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引きこもり当事者カラッと研究術 4

4話すな、聞け、笑え 

というわけで、口を開いて積極的に話すことなく他者といる場を気まずいものにしないという芸当が果たして可能であるかどうかを見てみたいと思います。何事も現状把握が大事ということで、先ず、今の対人関係を観察してみます。家全体が心地良い雰囲気になるように励み、そして、食事という生きることの核に関わることで、良き人間関係を築いていける場を整えていると思います。その環境の中で会話が必要になった際に、周りの人とどのような話しをしていますか。また、会話中のその場の雰囲気はどんな感じでしょうか。気まずくて早く終わらせたいと感じていますか。さらに、会話前と後とで何か変わったと思えることがあるでしょうか。そのような点を確認しながら、今の対人関係を見つめてみます。

やはり、環境作りで居心地良い空間を作り出せたとしても、僕たち引きこもりの多くが持つ人と接すること、特に人と話しをすることが苦手で不得意だという意識はなかなか変わらないだろうと思っています。そこの苦手意識を完全に拭い去ることは難しいだろうと考えています。それでも、自分の日常から完全に他者を排除するのは不可能であり、生き延びていくためにも、もしそれを目指してしまうと自滅してしまうだろうことも自覚できます。部屋で一人悩み苦しんでしまうのも、゛他者が存在しない゛からだとも言えるのかもしれません。ですから、どんなに自分自身についての資料作りをして、辛い過去の記憶にまつわる物語を作り続けても、他人と全く接しない状態でいるのは危険すぎるだろうし、そう長くずっとは耐えられないだろうと思います。

しかし、その人と会うことが、話しをすることが、苦手で嫌でどうしても避けたいという思いもあります。そして、その不得意で苦手なところが気になり過ぎて、対人関係で上手に振る舞えない自分を自分で責めてしまって悩んで落ち込んでしまうこともあるだろうと考えています。得意でないことが上手にできなくて自責するというよく分からない状態に陥ってしまいます。

そうであるならば、先ずは、自分は人と接すること、人と会話することが苦手で不得意であると自分で認めて、諦めてしまえば良いと思います。下手で苦手なことを必死に克服しようとしても苦痛でしかありません。また、たとえ少し改善されたとしても、もともと上手な人と比べれば大したことはありません。そんな少しだけ向上した実力で臨んでも、いいカモにされるだけです。苦手で不得意なことを見つめ続けることほど体と心に悪いことはないかもしれません。できないものはできないと認めて、ある意味、諦めることが必要だと思います。  

確かに他者の存在は生き延びていく上でも重要だと思いますが、その他者と接すること、話しをすることが自分は苦手で得意でないと認めて、ある種、諦めてしまうことからスタートしたほうが楽だと考えています。そこをなかなか認められずにぐずぐずといつまでも克服しようとして、結局、上手くいかずに落ち込んでしまっている場合があると思います。苦手で不得意なことなのですから、下手でも仕方がないのです。それを無理に強引に改善しようとしても、時間を浪費して終わってしまう可能性が高いです。しかも、メンタル的にも良くないです。だったら、そんな自分の人よりも劣る部分だけをいつまでも見つめ続けても意味があまりないように感じます。そこはさっさと下手だと認めてしまって、良くしようなどとせずに諦めるべきです。そのほうが、また別の道も見えてきます。

ですから、僕たち引きこもりは、人と会ったり、話したりすることが不得手なのですから、そうだと自分で自分に認めて、先ず、できる限りリスクを回避したら良いと思います。全く対人関係を遮断するのは生き延びていくためにも危なすぎますが、苦手なのですから広げる必要は全くないはずです。沢山の人と繋がって交流関係が広い人物像に対してポジティブなイメージを持ってしまいがちですが、そんなものは不可能なのですから無視してしまいます。視界から外してしまっても良いと思います。

僕たちは、そんな身の丈に合わないことを目指さずに、対人関係を絞る方向にむけて進むべきだと思います。苦手なことを手広くやろうとして上手くいかなくても誰も不思議がりません。当然だと思います。だから、先ず初めに対人関係が発生する場にはできる限り赴かないようにします。可能な限り避けるようにしてみます。同じ家に住むなど緊密な関係をすでに築いている周りの人とは会うことになりますが、そこは掃除や食事などの環境作りを対人関係よりも優先させておきます。

他の人にとっては何でもないことかもしれませんが、僕たちにとっては人と会うことは危険な賭けのようなものです。慎重にならないといけません。苦手で不得意なことに丸腰で何の作戦も練らずに立ち向かっていくほど無茶なことはありません。高額ギャンブルですから、いくら気をつけても足りないぐらいです。何も対策を練っていないと、人に会う前から、その場面を想像するだけで不安で落ち着かずにイライラした気持ちになってしまいます。そして、その状態のまま出掛けて行っても、どれだけ苦手な会話の予行練習を一人でずっと繰り返していたとしても、誰とも話すことができなくて後で部屋で一人で落ち込んでしまいます。それでは、どうして何のために出向いたのかも分かりません。だから、対人関係の場に赴くことは、僕たちにとってはとても危ない橋を渡ることだと十分に認識しておきます。

そして、当然、下手なことですから、例えば自分から何か話しの話題を提供したり、気軽に人に話しかけたりすることはできない無理な相談だとしっかりと認めて諦めておきます。ここは近い関係の周りの人に対しても同じです。もしそんな願望を持っているようなら、すぐに捨ててしまいます。

そうではなくて、この高額ギャンブルの場で、どう自分が話さなくても心地良い対人関係を築いていけるかを考えないといけません。他者との会話という苦手なことを克服しようとするのではなくて、今のそのままの自分のコミュニケーション能力でどういうふうに対応することができるかを考えてみます。そのほうが不得意なできないことばかりを見つめて落ち込むよりもはるかに気持ち的にも楽だと思います。

自分の欠点や短所を直そうとそればかり見つめていると、具合が悪くなってきます。しかも、空回りをして、悩む可能性が大です。この際、そこには目をつぶって、弱々しい会話スキルのまま、それを携えてどうこの不利な場、アウェーを凌ぐかという方向で考えてみます。

それでは、実際に周りの人も含めた他者を目の前にしてどう振る舞うかという点を見てみたいと思います。先ずは、対人関係の場で何か役割や作業を獲得できれば良いのではないかと考えています。前に書いたような家の掃除や食事に関わっている間は、掃除をしている人、食事の準備をしている人という役割がありますので、その作業があくまでもメインであり、周りの人とのその場での会話の大部分もそのメインのことに関するものになってくるだろうと思います。つまり、話題を絞ることができます。今、行っている作業に関する話しになりますので、何を話したら良いのか分からないというような悩みも減ると思います。また、基本的にその作業に没頭していれば、余計な会話もカットできます。会話の頻度、回数を減らすことができます。

だから、何か作業をしている人にその場でなるようにしてみます。人と面と向かって話すことが中心に来ないように、何か作業をしながらそれを真ん中に持って来て、会話を端に寄せていってみます。その場で実際にやっている作業に関しての会話になるように仕向けます。それで、ある程度、会話の広がりを封じ込めてみます。これは、実際に家の掃除や食事の用意をする時に周りの人で試してみれば良いと思います。

それでも、役割や作業が何も見当たらないケースもあると思います。その時は、かなり不利な場となってしまいますから、どうしても行く必要がないのであれば行かないでおきます。携帯を眺めている人、煙草を吸っている人、などと簡単にすぐになれる役割もありますが、そういう役は個人的なもので、何かその場を支配するような作業にはならないだろうと考えています。

対人関係の中で会話が中心にくるともう敵いませんので、どういう種類の対人の場であるかを事前に出来る限り調べておきます。そして、何かその場を支配する作業をしている人になれないような所だと判断したら、可能な限り回避してみます。それは負け戦です。でも、場合によっては、それでも参戦しないといけないこともあると思います。

そういう場合は、相手に話させるように仕向けてみます。それは、何か作業をしている人になれた場合も同じで、何かの役割を演じることで話す頻度を減らしておいて、さらに相手に話してもらいます。決して自分から話しかけようとか、何の話題が良いだろうか、などと考えません。そんなものをいくら前の晩に寝ずに考えても、会話能力に劣る僕たちに良いアイデアが浮かぶことなど先ずありません。そんな負けると分かっていることに必死になっても無駄ですから、作業している人になれるならなって話題の方向と広がりをある程度、絞るだけで、実際にその場でどんな話しをするのか、どういう話しを取り上げるのか、などはすべて他の人に任せてしまいます。そこに無駄な労力を使わないようにします。

そして、何も自分から話さないで、もちろん話題を提供することもなく、じっと待ちます。ここで何か作業や役割があれば、それをすれば良いのでかなり楽です。なくても、決して苦手で不得意な会話に自ら飛び込むような無茶はしません。そうすると、当然ですが、その場の誰かが何か口にします。会話が勝手にスタートします。

僕たちは、部屋に一人で引きこもって沈黙には非常に強いですが、他の人はそれほどでもないようです。ずっと黙ったまま放っておくと誰かが口を開きます。だから、仮に何の会話も全くない沈黙が延々と続くような対人関係の場であっても何も心配する必要はありません。必ず、相手が何か話すことを見つけてくれます。それまでは、得意な沈黙の中で静かにしています。

そして、相手が何か話し出したら、さも興味があるようにしっかりと聞いているふりをしてみます。なにか気の利いたことを返そうなどと考えずに、ただちゃんと聞いている演技に徹します。相づちを大袈裟にならない程度に打って、相手の話をしっかりと聞いています、というふりをします。聞いている演技がしっかりとできていたら、こちらは受け答えだけしてそれ以上特に何も話さなくてもその場が物凄く気まずい雰囲気になることはないと思います。こちらがたとえ無口なままでも問題なく対人の場が流れていくと思います。

こちらは話すのが苦手なのですから、極力相手に話させるのが得策です。できる限り口を閉ざして、相手に気持ち良く必要ないようなことでも話してもらいます。相手に話さす、そのためだけに、こちらはほんの少しだけ受け答えのために口を開いて、そして、しっかりと話しを聞いているふりに徹します。不得意なところで勝負しても袋叩きに遭うだけです。可能な限り何も話さないでおきます。

ここで、聞きているふり、とたびたび書いていますが、文字通り、本気ではなくて演技で問題ありません。人と接するのが得意でない僕たちが、真剣にしっかりと相手の要領を得ないことも多いだろう話しを聞こうとしてしまうと、もうそれだけで疲れてしまいます。ですから、ふり、演技に留めておきます。真面目にちゃんと話しを聞いているかどうかなど人の本当の内面は誰にも分かりませんから、それで良いと思います。

それでも、しっかりと話しを聞いています、というサインとして相づちをたまに打ったり、話している相手の目を見たりすることは必要だと思います。相づちは比較的問題ないだろうと思いますが、人の目をじっと見るのは気が引けるかもしれません。それでも、目を合わすだけで、かなり効果があります。何をどのようにどのタイミングで話すかなど会話に関してあれこれ悩み考えるよりも、視線を上げて相手の目を見るほうがはるかに単純で簡単で効果を期待できる行動だと思います。たったこれだけで、しっかりと聞いています、という感じがぐっと上がります。もし今、少し外出できるような状態でしたら、コンビニなどで店員の目を見る練習をしてみるのも良いと思います。

 そして、相手に気持ち良く好きに話してもらえれば、もうそれで僕たちの対人関係の目標は達成されたということです。端から勝つ見込みもない対人関係の場で戦うつもりなど毛頭ありませんから、相手がいろいろと話して、それで、もし気持ち良くなってもらえれば、それだけで万々歳、大成功です。それ以上に、例えば、こちらが思っていることもしっかりと伝えたいとか、自分の考えもちゃんと話したいなどと決して思いません。僕たちは、口下手で会話やコミュニケーションが上手ではないのですから、そんな不利な場で必死に交戦しようとしても大きな傷を心と体に負うだけです。スパッと諦めてしまいます。

僕たちにとって対人関係や会話の場は、あくまでも相手にいろいろと話してもらうところであって、自分の悩みや思いや主張を伝えるところではありません。それを忘れないようにしておきます。そうでないと、苦手なところで戦いを強いられることになって、痛い目にあいかねません。そんな端から結果が分かっているところで争う必要はありません。その場は、相手に譲って、任せて、僕たちは怪我をしないようにだけ気をつけていきます。

対人関係の場で、僕たちは、決して話し手ではなくて、聞き手なのです。徹底的に聞き役にまわります。しかし、相手の話しを巧みに引き出す聞き上手になる必要もありません。人と接すること自体が僕たちにとってはかなりのストレスなのですから、それに加えて余計な負荷をかける必要はありません。ただ聞いているふりをすれば良いだけです。

 それで、相手の目を見ることにも関わってきますが、僕たちは不得意な会話の場では常に優秀な観察者であろうとすることが重要ではないかと思います。会話やコミュニケーションの場は、僕たちにとっては深手を負いかねない危険なところです。そこに何が存在しているのか、どんなことに遭遇することになるのか、よく分からない森の中を歩いているようなものです。ハイリスクな場なのですから、準備や用心を怠ることはできません。ライトも地図も何にも持っていない手ぶらでむやみやたらに歩き回ったら、それは襲われてしまっても当然だと言えるかもしれません。

 だから、よく周りを観察しないといけません。もともと得意でないその場で戦う気はこちらには全くありませんが、それでも相手が好戦的であることもありますし、相手が最も得意とする場である可能性だってあります。こちらがいくらそこで争う気がなくても、上手いこと相手のフィールドに引っ張り出されて、大ダメージを負うかもしれません。それほど、僕たちにとって対人関係は危険なリスクの高いものです。その高額ギャンブルの場に赴くのですから、下手に戦いに巻き込まれないように作戦を練り続けないといけません。

 とにかく注意深く相手の言動やその場の空間をできる限り観察します。これは、自分から話す必要がない分、比較的容易にできるかと思います。口は開かないで、その場をじっくりとよく見ます。それこそ、相手の服装や動作やしぐさやその場の家具の配置やデザインや色合いなどできる限りあらゆるものを確認します。全く知らない森の中にいる気持ちでとにかくできるだけ多くの情報を得るように心掛けます。苦手な場にいるのですから、ちょっとした攻撃ですぐに倒されてしまう可能性があります。それこそ、必死に自分の身を守るために死ぬ気で観察していきます。

 そうすると、結構、その場にも隙があって、自分でもその隙間に割って入っていけるかもしれないと思うことがあります。でも、何度も言いますが、その場は得意なところではありませんから、そのような行動に出ることは慎みます。あくまでも静かに観察し、聞いているふりに徹し、どうにか傷を負わないようにその場から生還することを目指します。そこで、勝利を得ようなどとせずに、とにかく痛手を負わないように、戦いに巻き込まれないように、それだけに意識を集中させます。

しかし、そのように話さずに静かに周りを観察して、しっかりと話しを聞いているふりをしていても、どうしても何か話しかけられることがその場で何度かあります。特に自分と相手の二人だけの場合は、どうしたって何かこちらからも少しは話さないといけません。これが厄介です。相手の目を見て、相づちを打って、しっかりと聞いているふりをして、相手に気持ち良く話してもらって、それで、はい、さようなら、となれば良いのですが、なかなかそうはなりません。こちらも何か発言しないといけない。苦手な話すということをしないといけない。

だから、先ずは、自分と相手の二人だけという場にはならないように気を配ります。常に三人以上の場になるように仕向けていきます。これだけでも、自分が口を開く頻度を下げることができるかと思います。そして、どうしても必要な時だけ、無理をせずに少しだけ口を開きます。その時、相手が話しかけてきたことに言葉少なく返答するだけに留めます。聞かれたことに対して、簡単に出来るだけシンプルに答えます。そこで、長々と自分の考えや思いを伝えようとしても、上手ではないですから相手の良いようにされるだけです。

話しかけられたら、その聞かれたことに対してだけ簡潔に答える。それに徹します。話すという危険なギャンブルに出るのですから、慎重に小さく出る必要があります。それでもし上手くいったからといって、調子に乗ってたくさん話そうなどとは決してしません。僕たちにとっては、会話やコミュニケーションは、あくまでも相手に楽しんでもらう場であって、こちらが楽しむ場ではないということも頭に入れておいてもいいかもしれません。僕たちは、聞き役であり、その場の主役なのでは決してありません。いわば、隅っこの名もない端役です。必要でない時はじっと得意な沈黙を貫いて、どうしても話さないといけない時に本当に少しだけ口を開きます。そして、すぐにまたその場を観察しながら聞き役に戻って、相手に好き勝手に話してもらいます。

 あと、もう一つ、笑うことも僕たちがコミュニケーションに挑む際に重要なアイテムになるだろうと思います。話している最中に、往々にして人はどこかのタイミングで笑います。どこかで笑顔を挟んできます。その時に、こちらも笑顔を作るようにします。相手が笑えば、こちらもつられたように笑顔を作ります。そうすると、少し場の雰囲気が和む傾向があります。和めば、どんなに口達者な相手であっても、口下手な僕たちを半ば強引にコミュニケーションフィールドに引きずり込んで辱めを与えてやろうなどと考えることもなくなるだろうと思います。

 だから、その場で誰かが笑えば、自分の身を守るために同じように笑顔になれば良いと思います。その時に、何が面白いんだ、つまらないじゃないか、などと話しの内容にこだわる必要は全くありません。そんなものはどうでもいいのです。傷を負わないように身を守るために、ただその目的のためだけに一緒に笑います。

 それで、笑顔を見せる、ということで、もう分かり切っていることだとは思いますが、自分から面白くて楽しい話しをする必要などありません。そんな面白話を部屋で一人で考えることなどしなくていいです。他の人にすべて任せてしまいます。

 僕たちにとって、対人関係は相手にとって有利な場であり、さらに言うと、こちらは面白くも何ともない場である可能性が大いにあります。相手に好き勝手に話してもらって、こちらは聞いているふりをひたすらしているだけですから、多くの場合、楽しくはないだろうと思います。でも、その場は僕たちが上手に振る舞えないところなのですから、下手に能動的にアクションを起こすと、こっぴどくやられてしまいます。だから、面白くも楽しくも全くなくても、相手に話すだけ話させて、こっちは得意な沈黙でどうにか乗り切ります。沈黙に強いという長所を思う存分、ここで発揮します。

まとめてしまうと、僕たちにとって会話とは、相手に話してもらい、こちらは観察者であり聞き役であり、必要最小限の受け答えだけをして、相手が笑えばこちらも笑う、というこちらとしては楽しくも面白くもない場です。そんな場はできる限り避けたいです。要は、生き延びていく上で完全に排除することができないから最小限の対人関係を築くというわけです。そして、苦手であってもそれを可能な限り心地良いものにしていくというわけです。

そのように何とか対人の場を乗り切ろうとしますが、聞くふりや目を見ることや笑顔を作ることは慣れないと結構、大変なものです。たまに会話の途中でひどく疲れてしまって、聞く演技も目を見ることも笑うこともできなくなることがあると思います。その場にいるだけでもかなりのストレスを受けている状態ですから、さらにその上に対応策を実行するには実践を通じたトライ&エラーが重要になってくると思います。

ある対人関係の場に赴いた時に、先のような相手の話しを聞いているふりなどを試してみます。苦手な場ですから、緊張してペース配分も忘れてしまって初めから全力で聞き役に徹しようと力んでしまうかもしれません。そうなってしまうと、途中で疲れてしまって、やがて無表情になり、相手の目を見たり、相づちを打ったりすることもできなくなってきてしまいます。すると、その場にいる人がその状態を察して、気にしてこちらに話しかけてくる回数が増えることがあります。疲労で何の対応もできないノーガード状態でたくさん話しかけられてしまうと、滅多打ちにされるだけです。話しかけられているのに無言で何の受け答えもできない気まずい雰囲気を作ってしまいます。そして、ようやくその場から退散し部屋に戻って、一人で自分は本当に駄目な奴だと落ち込んで自分で自分を責め続けてしまいます。

と、いくら対応策をしっかりと実践しようと思っていても、必ずしも上手くいくとは限りません。こういう苦い経験を悩み落ち込むだけのアイテムとして利用するのではなくて、トライ&エラーとして次に少しでも活かすようにすべきだと思います。せっかく体を張って得た貴重なデータですから有効活用してみます。

トライ&エラーとして僕は、下のように対人に関わる経験を幾つかに分けて書き記しています。もう自己啓発ですね。

1.上手くいくとはどういうことか。どういうふうにその場をさせたいのか。(理想)

2.何が不安なのか、心配事は何か。(事前の不安)

3.どんなやり方で対応するつもりか。(対応策のチェック)

4.実際にどこが思い通りに行ったのか。(上手くいった点)

5.実際にどこが思い通りに行かなかったのか。どこを間違ったか。(出来なかった点)

6.では、次はどうするか。どこをどう調整するか。(次回の課題と新たな対応策)

7.再トライ。(新たな方法での経験値集め)

そして、再トライの経験をさらに確認し見直して、また新たなやり方での実践に繋げていけるようにしています。本当に自己啓発のようですが、最も苦手で不得意な話すという行為は改善しようとは全くしていません。その最大の弱点、欠点はそのままに、まだマシだと思える部分を少しずつでも良くしていこうとしています。極端に言えば、話すことは完全に諦めてしまって、それでも対人関係の場を心地良いものにできないかと実践しているようなものです。

無口で静かな人というのは、ネガティブなイメージもありますが、それを大いに利用することはできないだろうかと考えています。そのイメージを無理に強引に変えようとせずに、むしろそれこそを自分の武器として、長所として、対人の場でも最大限活かせないだろうかと思っています。口達者で活発な人という正反対のイメージになろうとするのではなくて、今のままのイメージを磨く方向に進んだほうが良いのではないかと感じています。それが素晴らしい武器になるように磨き続ければ良いだけだとも思います。消極的で臆病な自分は駄目だと悩まずに、それこそが唯一の磨き上げる価値ある武器だと思えないだろうか。ネガティブなものではなかったといずれ確信できるようになるまで磨き続けて、その武器でどう生き延びていくかを考える方向に進めないだろうかと思っています。

悩みや不安に支配されてしまうと、わざわざ自分で自分を良くない方向に向かわせてしまう傾向があります。結果的にますます自分を不利な場に追い込むと分かっていても、そちらに進んでしまいます。好ましくない結果や失敗を待ち望んでしまうことさえもあると思います。そのようなことになるぐらいなら、その悩みや不安の種を自分の美点や武器として磨きに磨けば良いだろうと考えています。

自分自身を使ったちょっとした実験をするようなものです。自分を変えるなどという、とんでもない労力を要することには全く目を向けず、人と接することや話すことが下手な今の自分のままで、そこは全く変えようともせずに、どうその場を最小限のダメージで、あわよくば無傷で乗り切れるか、さらに、どうその場を心地良いものにできるかに考えを集中させるようにします。もう何か話題を自分から提供しようとか、上手く話そうとか、面白いことを言おうとか、自分の考えや悩みを打ち明けようとか、そんなことを人との会話に期待しません。それは到底できない芸当だと諦めます。今の自分のままでどう対応できるかだけを考えていきます。

また、もし必要なようでしたら、厚生労働省のサイトにある認知行動療法マニュアル(社交不安症、パニック症、うつ病など)を参考にしてみても良いと思います。主に治療者用のようですが、そこにある表や図や質問事項は利用できるかもしれません。でも、認知の歪みを正す、自分自身に向き過ぎている注意を外に向ける、という当たり前ですが治すことに重きを置いていますので、今のまま何も変えずに、できないものはできないと諦めて、そのままでどう現実に対応しようかというのとは少し異なるのかもしれません。それでも、読んでみれば何か良いアイデアやヒントが得られるだろうと思います。

このように対人関係の場に赴く機会がある度にトライ&エラーを書き記し、それを繰り返し読みなおして頭では十分によく分かったつもりになったとしても、いざ本番となると体がなかなか思うようには反応してくれません。ここがまた難しいところです。前にも書いたように極度に緊張してしまい体が上手く動いてくれずに、へとへとに疲れてしまうこともあります。

部屋に引きこもる生活を続けていると、極度に人、特に顔見知りぐらいの人を避ける傾向があるように思います。近所の人に偶然、道でばったり、といったシチュエーションでは、反射的に体がさっと物陰に隠れようとしてしまうことが多々あると思います。別に危害を加えられるわけでないと頭で分かっていても、体が勝手にそのように反応してしまいます。だから、いつもびくびくと怯えて外出もままならないということもあるかもしれません。一体何をそんなに恐れているのでしょうか。

 近所の人であっても所詮は顔見知りぐらいの関係ですので、そこでいきなり長々と立ち話が始まるわけではないですし、挨拶を交わせばそれで終わることでしょう。それに、もし仮に立ち話が始まったとしても、トライ&エラーを通じて訓練しているように完全に聞き役に徹しようとすれば何とかなるでしょう。話すな、聞け、笑え、を実践すれば何とか乗り切れるだろうと思います。

しかし、頭ではそうだと分かっていても、体は自然と人を避けてしまいます。だから、もう仕方ない、体はそれに慣れてしまているのだからそのまま受け入れようと、これからも人を避けてこそこそと隠れ続けるのが良いのだろうとも考えましたが、一つのことが気になりました。

 そういうふうにこちらが避けていると、当然ですが、相手は、避けられている、もしくは、こちらがその人のことを嫌っていると感じます。下手をしたらこちらに憎悪や嫌悪感を抱くようになるかもしれません。そして、これまた当たり前のことですが、相手もこちらを避けるようになります。当然の結果なのですが、あからさまに人に避けられると心が傷つきます。自分の行為が招いた結果に自分が苦しめられるという完全に自業自得の状況です。

 人を避けて自分の身を守っているはずが、そうはなっていません。傷ついて落ち込んで自己否定や自己批判を繰り返して悩んでしまっています。あれほど悩んでも落ち込んでも意味がないと分かっているつもりなのに、その悪循環を繰り返しています。

 しかも、不当に避けられていると隣近所の人たちが思うことは、こちらにとってかなり不利な状況です。もし仮にその状態で会話やコミュニケーションの場に半ば強引に引っ張り出されることにでもなれば、袋叩きです。滅多打ちにされます。それに、世の中、何が起こるか分かりません。急に近所の人の助けが必要な状況が訪れるかもしれません。そういうことを考え始め出すと、濃密な近所付き合いは無理ですが、ある程度ニュートラルな関係は築いておきたいです。

 だから、何とか逃げたい体を耐えて挨拶だけはします。それだけです。携帯電話でも見ながら何か作業をしているふりをして、サラッと挨拶だけします。ちょっとした我慢です。不利なところをもっとアウェーな場にしないためです。袋小路に追い詰められないために挨拶だけします。一応、その時に相手の目も見ようとします。聞いている演技と同じです。

そうやって、この弱くて脆い身と心を守る方法や対策をトライ&エラーで書き記しながら磨いていくしかないのだろうと思っています。向こうから撃たれた弾に、相手からしたら何でもないような会話のキャッチボールのような球でも、無防備に当たったりしてしまうとそれだけで致命傷になりかねません。どうにかいろいろと対応策を講じて防いでいきたいものです。

 と、ここまで僕たちが下手なコミュニケーションの場でどのような対処ができるかを考えてきましたが、苦手で不得意なことがあれば、当然、上手で得意なこともあると思います。次は、この僕たちが有利な場について考えてみたいと思います。

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