スキップしてメイン コンテンツに移動

引きこもり当事者カラッと研究術 7

7不安ながらも一人の道を探す 

 一人で自分の生活に必要最低限のお金を得るというのは、一般的な賃金労働を越えたチャレンジ、壮大な実験です。もうこれは本当に人生を賭けた挑戦だと言っても良いと思います。周りを見渡してみても、この道を歩んでいる良き手本がなかなか見当たらないだろうと思いますし、どこかに勤めてお金を得る以外に方法はないのではないかと不安に感じることもあります。

確かにそう思わないこともありませんが、多くの人が選択しているお金の獲得方法に従って上手くいけば良いのですが、それが僕たちには難しく、どこかの段階で限界に達してしまう可能性が大です。そうなってしまうかもしれないという予感を薄々感じながらも、その道を選ぶのはやはり好ましくないと思います。もたない、耐えられないと心の奥底ですでに気づいていて、そっちに、たとえどんなに周囲からの圧力があったとしても、向かうのは自分の身を滅ぼすような行為だと言えるかもしれません。自分の体と心を壊してまでお金を稼いでも僕たちには何にも良いことなんてないと思います。

だからこそ、賃金労働が不得意で人と接するのも苦手な者として、一人の道を探さないといけないと思います。必死に考え出さないといけません。そうしないと、賃金労働レースに周回遅れのド素人として参戦するはめになって、ボコボコに袋叩きに遭いながら、それでもそれにしがみつく、というもう自分でも何をやっているのかも分からない状況になってしまいそうです。そして、ついには、あれほど多く持っていた時間をすべてその賃金獲得競争に捧げることになり、体も心も消耗しきってしまうかもしれません。

一歩、そのレースに足を踏み入れてからでは遅いと思います。凄まじい競争スピードに呆気にとられてしまって、反応するだけで精一杯で考える隙もないと思います。むしろ、考えるのを放棄してしまって反応スピードのみに意識を集中させたほうが上手くいくのかもしれません。だから、そんな渦の中に入る前に、過酷な賃金労働レースから少し離れたところで自分の必要最低限のお金の稼ぎ方や生活について先ずは考えてみます。

部屋に何年、何十年とずっと引きこもって、その生活を死ぬまで全うするのが人生の目標であっても別に何の問題もないと思いますが、それを死ぬまで続けていくための戦略は日々、練る必要があると思います。親はいつかは、おそらく自分よりは先に、死にますし、今、親に生活のすべてを頼っている場合は、彼らの死後、どう死ぬまでその生活を維持し続けるかが重要なポイントになってくるはずです。助けてくれる親類や隣人や友人もいない状況で、唯一の頼みの綱である親が亡くなった場合、どうするのか。そこのところは、死に物狂いで考えないといけないのだろうと思います。

でも、焦って何でも良いからとにかくお金を得るためにどこかに勤めてみようとすると、苛烈な賃金労働レースが待ち受けています。袋小路に入ってしまったとも思ってしまいたくなりますが、実際はそう思い込んでしまっているだけで、どこにでもいくらでも逃げ道や出口はしっかりとありますよ。自分で自分の視界を塞いでしまっているだけです。先ずは、抜け道はあると思えることが大切だと信じています。もしそう思えるなら視界を塞いでいる闇も晴れてきて道も見えてきます。確かに道はあると信じて前に進んでいきましょう。本当に身震いするほどの挑戦です。

では、手元にある有利なカードをもう一度見てみます。そこには、一人で居られるという長所が記されています。この点を伸ばしていくのが容易で、しかも上手にできることです。だから、この強みを活かしていきたいですが、これを逆から見ると、団体行動が苦手だということです。集団の中で何か指示や命令されると、体と頭が固まってしまって上手く振る舞うことができません。人と話すこともそうですが、集団の中で指示通りに動くことも得意ではありません。人と同じようにしようとするあまりにぎこちなくなってしまって上手くいきません。どうしても団体の中ではそうなってしまいます。だから、この点から考えてみても、やはり一人の道を探さないといけないと納得できます。自分の身を守るためにも一人の道を求めないといけません。そちらの方向に自分の有利なカードを見てみても押し出されています。

だから、苦手で不得意な賃金労働や人と接することに過剰に目を向けるのはやめてみます。そっちには押し出されていません。そんな下手なところでいくら頑張っても上手くいかないのは目に見えています。自分でもそうと分かっているはずですから、他の道に目を向けてみます。集団で行動するといつも外れてしまい、具合が悪くなってしまう自分を見て見ないふりをしても仕方がありません。集団の中で孤立してしまうのはもうどうしようもないことです。

しかし、当然、一人の道は果てしなく長く追い求め続ける必要があるはずですので、短時間の賃金労働に従事しながら一人での活動を少しずつ広げていくのが良いと思います。とりあえず、どのようにお金を得るのかを実際に観察して体験するためにも短時間の賃金労動に就いてみます。そして、それを続けながら一定の収入を確保した状態で、その次の段階として一人の活動をやり始めてみます。短時間の賃金労働に就かずにいきなり一人の道を追い求めることになると、生活に必要最低限のお金すべてを周りの人に負担してもらうことになります。それでもすぐに結果が出れば良いですが、それほど簡単な道ではありませんのでいつまでもずっと自分でお金を全く得られない状態が続いていくことになります。たとえどんなに必死に頑張って努力していたとしても、自分のことでないと人は、過程ではなくてあくまでも結果にしか関心が向きません。結果としてお金を得ていないなら、以前と同じ引きこもり状態と何ら変わらないと判断されてしまいます。だから、一人の道を探し求める時間を周囲に邪魔されずにしっかりと十分に確保するためにも、短時間の賃金労働に従事してお金を得ておきます。

そういう状況が整った後に一人の道を探し出しますが、先ず前提として当然、一人の道なのですから、人と組まずに一人で動くという点を確認しておきます。集団の中にいると誰かの意見や行動に流されてしまうことは分かり切っていますので、一人でやります。自分一人だけなのですから、必然的に自分で考えて行動するしかありません。それ以外に選択肢がない状況です。組むから人に頼ってしまうのだと思います。そして、人に頼ってしまうから、自分一人では何もできないと思い込んでしまうのだと思います。初めから組まなければ、自分しか頼りにならないのだから、自分でやっていくしかないと腹が決まります。そうなると、思っている以上に自分一人でも色々とできると気づけるはずです。

有利なカードには一人で居られるとしっかりと書かれているのです。一人で試してみるのがもっとも上手くいく可能性が高いということです。だから、人に頼らずに一人だけで賃金労働外でお金を得る方法はないかと探ってみます。少しでも一人でお金を得ることができれば、その分、賃金労働に従事する時間が減らせるわけですから、必死に考えてみます。

それでは、また手元のカードを見てみます。そこには、別のコミュニケーションチャンネルを持てるともあります。人ではない動植物や自然との対話や会話に向けて開かれています。この強みを活かして何かお金を得ることはできないだろうかと考えると、家の庭やベランダで野菜や果物を育てるのが良いのではないかと思えてきます。野菜や果物の種を植えて毎日、水をあげて成長を見守ります。そうすると、人とではない別のコミュニケーションチャンネルとの繋がりを鍛えながら、さらに育てた野菜や果実を収穫することができます。家の庭やベランダで育てるぐらいですから、販売できるほどの量は期待できませんが、自分で食べることができます。直接、お金を得ることにはなりませんが、野菜や果物を買う出費を抑えられます。自分で育てることでお金を節約するわけですから、ある意味、お金を得る活動の一種だと見なすこともできるかと思います。

手元にたくさんの時間があるのですから、それを使って様々な野菜や果物を自分で栽培してお金の支出先を絞っていきます。日常の中でのお金の価値をどんどんと下げていきます。お金がそれほどかからない日常を送られるようになれば、それだけお金を外に取りに行く必要もなくなります。しかも、そのお金の価値を下げる活動が、長所の一つを鍛えることにも役立つのですから、これほど嬉しいこともないと思います。

今は、時間をかける代わりにお金を使う流れになっていますが、僕たちは時間があってお金がない状況ですから、この流れとは反対に、お金を使う代わりに時間をかける方向を目指してみるのが良いと思います。時間を節約するのではなくて、お金を節約して時間は湯水のように使っていきます。ここに勝機があると考えています。一人の道を探っていく中でも、時間でお金を補えるような活動がないかと周りを見渡してみれば良いと思います。

それでは、また手元のカードに戻ってみます。まだまだ僕たちに有利なことがあります。そこには、心が共振するとも書かれています。散々、悩み苦しんで一人で部屋に引き込んでしまったぐらいですので、人の痛みや苦しさを自分のことのように感じてしまうことがあります。この力をどうにか活かせないかと考えてみます。

前にも書きましたが、現役世代よりも賃金労働レースを完全に降り切った高齢者となら僕たちも比較的まだ上手に接することができる可能性があるのではないかと思っています。心が共振する力を利用して、高齢者世代をサポートするような活動ができないだろうかと思います。住んでいる地域限定で自分一人だけで買い物代行や家の片づけなど、いわゆる高齢者向けの何でも屋のようなことを行えないだろうかと思っています。

高齢者向けのサービスということで別に特別な発想や奇抜なアイデアでもありませんが、一人でやるという点が重要になってきます。このようなサポートサービスを高齢者に提供している民間企業などは山ほどあると思いますが、そこで勤めるとなると、どうしても現役世代との人間関係などにいつか躓いてしまうだろうことは目に見えています。

それに苦手で不得意であろう昼食休憩もあるかもしれません。ランチタイムは本当に憂鬱な気分になってしまうだろうと想像しています。昼食は、勉強や仕事などの本来そこにいる目的から少し外れる時間帯ですので、勉強している、働いている、という殻を周囲に対して纏うことができずに上手に対応できないのだろうと考えています。結局、さっさと大急ぎでご飯をかき込んで、これまた大急ぎで勉強や仕事に戻っていくことになる可能性が高いだろうし、現に今までもそうだったのではないかと思います。そして、そうなると、周りから真面目な奴だと思われてしまって、全然そんなことはなくても何だか窮屈に感じてしまうだろうとも思います。ですから、短時間の賃金労働に従事する際もなるべくお金を得る場で昼ご飯など食事休憩を跨ぐ必要がない時間帯に勤めてみたほうが良いだろうと感じています。

そんな気持ちが暗く沈むランチタイムも避けたいところですので、高齢者向けサービスを行なっているところに働きに行くのではなくて、一人で小さく自分が出来る範囲内で活動することを目指してみます。しかも、それでもし仮に今すぐではなくてもいつか生活に必要最低限のお金を得ることなどができれば、それで本当に大満足で、それ以上、その活動を広げようとは考えもしません。それで起業して、会社を大きくして、たくさんの従業員を雇うなどということは夢にも思いません。一人で動ける範囲でやります。人とともに集団で活動するのが苦手で一人で居るのが得意だから、そうしているだけです。何も多くのお金を稼ぐためではありません。一人でやれるところまでで十分です。誰とも組もうとはしません。それで上手くいかなくても自分一人だけですから、気も重くありません。余計なプレッシャーはできるだけ排除しておきます。身軽に一人で動ける状態で常にいます。

当然、このような高齢者向けサービスは、今の時代、飽和状態のように市場に溢れかえっていますが、それでも孤独死などのニュースを見ているとまだ十分ではないように感じてしまいます。供給量は充実しているかもしれませんが、必ずしも要求されているものとマッチしているわけではなくて多少のズレがあるようにも思います。そこに、ずっと部屋に一人で引きこもって悩み苦しむことで得た僕たちの心の共振力を活かすことができるのではないかと思っています。老いが、死が、どこにどのように位置しているかという大きな違いはあるとは思いますが、どこか、何か、社会の中心から外れた者として心が揺れ動く部分があるのではないかと感じています。また、大きな組織でそのような細かい対応をしていくのは難しいかとも思いますので、一人で試してみる価値も意義もあると考えています。

それで実際に一人でこの高齢者向け何でも屋を始めてみようとしますが、ネットなどを通じて顔や名前も知らない人に呼びかけるのではなくて、人的資源を最大限利用して活動してみます。全く何も知らない人にサービスを提供するほどの信頼をネット上でたった一人の素人が獲得するのは無理なことだろうと思います。ですから、初めからその方法は諦めてしまいます。そうではなくて、皆無と言っても等しいほどのほんの僅かしかない人的ネットワークを活用することを目指します。そうです。周りの人に何か困っている高齢者がいないかどうか聞いてまわります。ここでの周りの人とのコミュニケーションは、苦手であろうと不得意であろうとどんなに口下手であろうと、しっかりと伝えるように心掛けてみます。ここでの会話や対話は、それ自体が目的ではなくて、その後ろに広がる壮大な挑戦のためですから、ひるまずに果敢に挑んでみます。

高齢者向けの何でも屋を一人で始めようとしてみても、ここからスタートするしか他に良き方法はないと思います。活動するうえで信用がキーポイントになってきますが、周りの人に自分の信用を担保してもらいながらやり始めるということです。短時間の賃金労働に従事しながら、その上でこのような活動も行おうとしているのですから、周りの人も協力してくれるはずです。お小遣いのような形であっても全く問題ありませんので、それでお金を得てみます。

もちろん、何でも屋ですから、庭の草むしりだろうと、ゴミの処理だろうと何でもやりますが、ただ、過剰な責任が生じるようなことは引き受けないようにします。単純で簡単な作業しかできないことは周りの人から予め伝えてもらいますので問題がないと思いますが、重圧に押しつぶされないようにこの点も常に気にしておきます。 

親類などに人手が欲しい人がいれば、活動を開始するのには良いだろうと思います。でも、親類でなくても周りの人が知っている隣近所に住む高齢者のために買い物を代行するのでも何でも構いません。また、その活動で本当に僅かなお金しか得られなくても気にしません。全く問題ありません。一人でお金を稼ぐ訓練ですから、ほんの少しだけでもその活動でお金を得られたら満足です。さらに、お金を得てみる以外にも、他人の家や庭の中に足を踏み入れる機会が与えられますので、他の人の空間処理の仕方を直に目にすることができます。他人がどのように空間を使っているのか掃除などを行ないながら数時間体験できます。これはなかなか手に入らない貴重な経験であり、自分の部屋や家の空間作りの参考に大いになると思います。

 また、実際に活動を行なう前に、依頼されている作業だけではなくて自分ができる追加のオプションも考えて用意しておけば良いだろうと思います。例えば、携帯電話やパソコンの使い方を教えたり、肩もみなどの簡単なマッサージをしたりすることです。そういうオプションになりそうなことを色々と考え出して、準備した状態で現場に一人で向かってみます。

今は何でもかんでも資格、資格と、肩もみをするのですら資格が必要だという過剰ぶりですが、マッサージを表向きにさえしなければ、高齢者サービスの一環として肩をもんであげるぐらいは問題ないと思います。資格がこれだけ叫ばれるのも全く見ず知らずの人にサービスを提供してお金を得る活動が席巻しており、どこから信用を得るかという問題に対処するためだろうと考えています。だから、肩もみをするのにもお金をかけて資格を取って信用を得ることになるのだと思いますが、こちらは持てる限りの僅かな人的ネットワークをどうにかこうにか使ってサービス利用者を探しますから全く何も知らない人を相手に活動を行うのではありません。そうなのですから、信用のために大金をかけて資格を取る必要もないと思います。

また、資格獲得のためのコースや教室などは、実績ある資格認定証が得られるだとか、ここで学んで起業した人が大勢いるだとか、そういう面が強調されているようで、誰から技術やスキルを教わるかという部分はそれほど重視されていないようにも感じます。とにかく資格さえ取れればそれで良いという感じにも見えてしまいます。だから、どうしても資格を取る必要が出てきたとしても、そのようなアピールポイントだけに目を向けるのではなくて何がそこに隠されているのかを考えてみるのも良いかと思います。自分の履歴書作りが、その訓練になってくるだろうと考えています。どこに注目して欲しいか、何を隠したいか、を考えながら履歴書を作成しますから、その作業が他の人のやり方を見る目を養う一助にもなると思います。

いつかどうしても資格が必要ということもあるのかもしれませんが、先ずは資格や検定などとは距離を取って活動していきます。周りの人にしっかりと真摯に伝えれば、必ず何か手助けを必要としている高齢者が周囲にいるはずです。そこは粘り強くやっていきます。また、その活動で僅かでもお金を得ようと試みてみますが、ちょっと難しそうでしたらボランティアから始めても良いだろうと思います。無償でサービスを提供してみます。これだと一人での活動をよりスムーズに開始できそうです。しかも、お金を得ることはできませんが、考えようによってはそれでも問題ないかもしれません。

頼まれて庭の掃除をすることになったとして、それでお金は得られません。しかし、その作業中に相手から何も受け取らないでしょうか。休憩中などにお茶やお菓子を持ってきてくれるのではないでしょうか。お金は受け取れなくても、それで水分や糖分を補給することができます。その分に使うはずだったお金を節約できたとも考えることができます。立派なお金に関わる活動になっています。日常の中でのお金の価値を下げることに僅かですが寄与しています。初めはそれで十分だとも思います。水分、糖分を補給するためのコストをカットできるわけですから、それで良しとします。

だから、無償で活動したとしても、それがお金にならないから全くの無駄ということはないと思います。必ず何か受け取ります。もし仮に本当に飲み物も何も提供されなかったとしても、作業後に感謝されると思います。部屋に引きこもる生活で誰かから感謝されたことがあるでしょうか。自分が行なった行為が誰かのためになったことがあるでしょうか。おそらく、人からお礼を言われたり、感謝されたりした経験も不足しているのではないかと思います。その足りない、欠けているものを受け取れるのです。

感謝されると嬉しいはずです。もしたとえそうならなくても、嫌な気はしないと思います。いつも悩み苦しんでマイナスの感情に引きずられがちですが、そこにプラスの感情が流れてきます。それで、常に楽しい、嬉しい気持ちでいられるわけではありませんが、馴染みのない明るい気持ちに一瞬であったとしてもなれます。これは、とても貴重なものではないでしょうか。そんな未知の感覚や感情を受け取れるのですから、たとえお金も何も得られなかったとしても、こちらが感謝したくなってくるほどです。

しかも、もうこうなってくると、本当にこの一人の活動でお金を得ることに固執しなくても良いのではないかと思えてきます。提供するサービスに対してお金で対価を支払ってもらう必要もないのではないかと思えます。お金に対するこだわりがなくなってきます。サービスの対価としてお金ではなくて庭で育てた野菜などの食料を提供してもらえれば、それで良いのではないかと感じてきます。野菜を対価として貰えれば、その分、当たり前ですが野菜をスーパーで買うお金を節約できます。しかも、お金を得て、スーパーに行き、野菜を買うという行程をすべてすっ飛ばして直接、目的の野菜を手に入れられますので、無駄がなくて効率も良いです。

食費を減らせるなら、もうそれでお金に関わる活動になっています。直接、お金を受け取れなくても構いません。何でも貰えれば有り難いです。ですから、高齢者向けの何でも屋サービスの対価として、お金ではなくて食料などの他の物で支払ってもらっても良いことにすればいいのではないかと思います。そういうふうに利用者に伝えてしまいます。また、食べ物などの食料だけでなくて、何か別の物や別の活動でサービスの対価を支払いたいという提案も受け付けてしまいます。そうすれば、どんなものが受け取れるのかいつも楽しみにもなります。毎回、対価がお金と決まっているのもつまらないことだと思います。

しかも、お金を出すことを渋る人はたくさんいますが、庭で育てている野菜や果物などだったらもっと気軽に提供してくれるはずです。今の社会で最も価値あるものであるお金という高いハードルを除いてしまえば、利用者がもっと広がる可能性もあるように感じます。お金というハードルを設けてしまうから、上手くいかないのかもしれません。必要最低限のお金は得たいとは思いますが、急がば回れではありませんが、その獲得したいものを一度手放すことで良い方向に進んでいけることもあるのだろうと思います。お金が障害物として視界の邪魔になっているかもしれません。お金を越えた物々交換に乗り出してみます。通貨がない時代の物々交換ではなくて、通貨が十分すぎるほど普及して唯一の価値あるもののようにも見える社会でお金を介さない物の交換です。

そうすれば自分だけでなくて利用者も面白がってくれるかもしれません。そこに別の道が開けてくることもあると思います。全く想定外の物や活動で対価を受け取るようなことがあれば、それによって自分の視点が変わり、今まで考えもしなかった一人の道が見えるかもしれません。そういう外部からの刺激もいつも同じ代わり映えのしないお金を受け取るだけでは得られにくいだろうと思います。この外からの影響も部屋に引きこもる生活では不足しがちですから、積極的にお金を挟まない活動に乗り出してみます。ひょっとしたら、今とは全く異なる日常を歩み出すことにもなるかもしれません。

また、そういうふうに獲得した利用者が、さらに多くの人を呼び込んでくれる可能性だってあります。なにせお金をかけずに用事を頼めるのですから、興味を持ってくれる人がいるはずです。しかも、人から人へという人的ネットワークを利用していきますから、それに伴って信用も人から人へと広がっていくことも期待できるだろうと思います。信用、信頼を一人で広げていこうとしても大変労力を要することであるだろうし、なかなか上手くいかないだろうと思います。だから、信用、信頼は人の手を借りて得るようにして、こちらは個々のサービスをしっかりと提供することに専念します。

サービスの対価をお金だけに限定せずにもっともっと広く何でも受け入れる度量を持てるようになれれば良いと思います。さらに言うと、前に無償の活動は何も得られなくても感謝はされると書きましたが、考えようによっては無料でのサービス提供も武器として利用できるのではないかと思います。ただより高いものはない、と言われていますが、文字通りそれを受け取るならば今の社会で最大級の価値を持っているお金よりも無料の行為のほうが高くつくということです。どんな大金よりも無料の行為のほうが、ある面から見れば価値があるということです。

お金がない者からすれば、この無料の行為を有効に利用していくべきだと思います。無料でサービスを提供してみて、何を受け取ることになるかじっくりと観察してみるべきです。無敵のようなお金よりも価値があると言われているのですから、無料の行為の威力は計り知れないものだろうと考えます。無料の行為の報酬として感謝され、さらにそれに加えて一体、どんなものが舞い戻ってくるか楽しみになってきます。

普通に考えるとお金がかかるようなことを無料で提供してみるのが良いのではないかと思います。相手は、通常この作業はお金がかかると認識していますから、それを無料で受け取れた時にどういうリアクションを提供者に起こすのか興味深いだろうと思います。お金を得るのが得意ではない者として、この無料の行為をどういうふうに日常の中に組み込むかも考えておいて損はないと思います。無料の行為を有利なカードとして使いどころを見定めるようにすれば良いだろうと考えています。

 そして、この無料の行為も上手く活用しながら、極端なことを言うと、お金がなくても何とかなるような日常を目指してみます。お金と縁がないことはもう分かり切っていますから、お金がなくても生き延びていけるような日常を作り上げる方向に進んでみます。お金が必要ない日常を築き上げることができれば、その分、苦手で不得意な賃金労働レースから距離を取れるのです。試さない手はないと思います。ひと月に最低限必要なお金の総額を調べていると思いますが、そこからお金を介入させなくても対応できる項目を増やしていけば良いのです。一人で行なう何でも屋で受け取るお金ではない対価も、自分のひと月の出費リストを見ながら、どのように日常の中でお金の価値を下げるのに貢献しているのかを確認してみます。目に見える形で自分の日常にとってのお金の価値を感じてみるようにします。

出来る限りお金の価値が下がれば、それだけお金に縛られなくなりますが、決して無理はしないでおきます。食事を頻繁に抜くなどしてお金を節約できたとしても、それでは長く続けていくことができません。体を壊して日常生活を送れなくなってしまっては、元も子もありません。永続できるようなお金がかからない日常を緩やかに目指します。道のりは長いですから、ゆっくりと少しずつ、日々、前に進んでいきます。

あまりのペースの遅さに、目標に全く近づけないことに、嫌気がさしてくるかもしれません。だからこそ、目に見える形で自分の日常の中でのお金の価値をしっかりと感じることが大切だと思っています。本当にほんの僅かであっても自分の中でお金の価値が下がったことを一か月の出費表を見て感じてみます。でも、お金をケチるというよりも、お金を時間や一人の活動で補うということを意識します。もともと部屋に引きこもってシンプルな生活を送っていてそれほどお金に重きを置いていないと思いますので、その低いハードルをさらに時間と一人で行なう活動で下げていきます。目標に到達するのは大変ですが、もともとお金の価値が自分の中で低いですからその行為自体はそれほど苦痛を伴うようなものではないと思っています。お金を得ることよりもやり易いだろうと考えています。

ただ、お金が必要ない日常を目標にするとしても、そのことを周りの人に打ち明けないほうが賢明だと思います。今の社会でお金を手放そうとするのですから、無茶苦茶なことです。しかも、僕たちはお金を持っていません。お金がない者が、少しでもそれを得ようとするのではなくて、それを手放そうとするのです。そんな目標を口にしてしまうと、いきなり出ばなをくじかれて、せっかくの計画がやり始める前から台無しになってしまいます。そこは慎重に進めていく必要があるだろうと思います。高齢者向けの何でも屋を始める際に周りの人の人的ネットワークを大いに利用させてもらいますが、お金がかからない日常を一人で探し求めるためだとは決して口にせずに、社会復帰の第一歩としてやってみるなどと伝えれば良いかと思います。密かに自分一人でコツコツを歩んでいくのが無難です。大丈夫です。何とか今日、食べる物さえ手に入れば、どうにか生き延びられます。心配はありません。

そして、そうなってくると、もう自給自足生活を目指したほうが良いのではないかと思えてきます。サービスを利用してくれる高齢者に、サービスの対価は必要ないですから少し庭の土地を使わせてくださいとお願いしてみます。そうやって土地が得られれば、そこで野菜や果物を自分で育ててしまえば良いのではないかと思います。土地も持たず、お金もかけずに大量の野菜や果物が得られることになります。サービスの対価として、結果として十分すぎる報酬を受け取ることになります。全くお金が要らない日常を送ることはできませんが、自給自足的な生活をすることができれば、かなり一気にお金の価値が下がった日常を手にできます。

さらに、本当に難しいことだとは思いますが、人から気にかけてもらえる、心配してもらえる人物にもし仮になれれば、たとえお金がなくても人的資源で生き延びていけるだろうと感じます。人が助けたくなるような人物にどうすればなれるかは分かりませんし、そういう動機を持っている時点で助けてもらえないようにも思えます。ただ、自分が無償で何の見返りも期待せずに手を差し伸べたいと思える人物が周囲に実際にいるのであれば、どうして自分がそのようにその人のことを思ってしまっているのかという理由を考えて、その人物の立ち振る舞いを観察しできる限り自分もそのように行動してみれば良いのではないかとは思います。これは、本当に険しく厳しい過酷な道ですが、一人で行なう高齢者向け何でも屋での物々交換サービスを続けていければ、何かヒントが得られるようにも感じています。

とにかく、誰とも組まずに一人で活動できる道を探してみます。自分の有利な部分は分かってきていますから、それを最大限発揮できるような一人の道を求め続けます。たとえ直ぐにそれでお金を得られなくても全く問題はありませんし、それだけの理由で一人の道を捨てるようなことは決してしません。引きこもることになった要因は本当に人それぞれだと思いますが、何年も何十年も一人で部屋に居られることは厳然とした事実として存在しています。僕たちは一人で居るのが得意なのです。強みなのです。この長所は是が非でも活かしていかないと、こんなに長く引きこもっている甲斐もありません。ですから、一人で活動する道がどんなに果てしなく長く続く道のりのように思えても途中で投げ出したりはしません。それを手放してしまうと、賃金労働レースに巻き込まれるだけ巻き込まれて終わっていく日常しか手に入らないかもしれません。もしくは、悩み苦しむだけの引きこもり生活をずっと続けていくことになってしまうかもしれません。だから、どんなに不安であっても、どんなにゆっくりであっても、一人の道を探し求めます。

もうここまででも、かなり机上の空論に見えると思いますが、更なる空論、妄言として、次は、未来を書く、ということを考えてみたいと思います。何年も何十年も引きこもってしまって立ち上がれないのは、未来を書く行為が欠如しているからではないかと考えています。一日後、半年後、一年後、十年後、二十年後、と様々な未来を書けるように目指してみます。

コメント

このブログの人気の投稿

独り言の効用 1-2

  1-2. 独り言という謎解きゲーム   五感から独り言をチェック 色彩から   それでは、今度は独り言の発生を五感から意識してみます。普段、現実を五感によって捉えていますが、それと同じように独り言を五感から見てみます。色、匂い、音、味、感触から独り言を調べてみます。  まず、視覚ですが、目に見えるものの色をチェックしてみます。すべてのものは何らかの色を有していますので、自分の周りにある家具や箪笥、壁や窓、机や椅子やベッド、コップや皿などの色を一つずつ目に入れていきます。できるならば、間取り図のようなものを描いて色鉛筆などでどんな色がどんな具合にどこに広がっているかを描き込んでみると、より一層分かり易いです。それが、普段の色の見え方になります。独り言が発生していない平常時のカラーです。また、着ている服の色も同時に確認しておきます。  そして、独り言が発生した時にこの色彩が変わるかどうか確認してみます。自分の周りに広がるいつもの色が独り言を始めることで劇的に変化するということはないと思いますが、独り言最中に特に目に付く色というのはあるかもしれません。何色が際立って見えるか確認してみます。どんな色に目が惹きつけられるか見てみます。  さらに周囲に実際に存在するものの色だけでなくて、独り言を発している時にどんな色が頭の中で見えているかも探ってみます。今の独り言を色で表すと何色になるか考えてみます。独り言の内容などは全く気にせずに、色としての側面だけに意識を向けます。そうすると、何かしらのカラーが見えてくるだろうと思います。  もちろん、独り言が止んだ後の色の見え方も感じてみます。部屋の中を見渡してみて、独り言の前と後とで何か色彩に変化がないか眺めてみます。一人でつぶやく行為を通過することで以前と違ったカラーで見えてくるものがないか探ってみます。ひょっとすると、前は気づかなかった色が目に留まるかもしれません。また、着ている服の色も再度、確認してみます。  とにかく、すべてを色として感じてみます。色で独り言のすべてを表現してみます。そうなると、色として自分の独り言を捉えるために絵を描くのも一つの手だと思います。自分の独り言はどんな色彩に溢れているのか絵の具を使って描いてみます。独り言を色として絵に落とし込む作業は興味深いですし、楽しいです。

引きこもり当事者カラッと研究術 3 パート1

3-1 .引きこもり当事者カラッと研究小説 パート 1 穏やかに落ち着いた心持ちになって、さて何をするか、ということですが、ネガティブな感情や記憶を封じ込めるために自分の過去に関する物語を書くのが良いのではないかと思います。日々、悩み苦しむだけの死に時間は、自分自身についての資料作りの時間に変えていっていますが、その溜まっていく資料には当然、膨大な自分に関する情報が書き込まれています。自分の心の癖や習慣や傾向だけでなく、どんなことで落ち込んで暗く沈んだ気持ちになるかなども具体的な出来事とともに大量に書き記されていると思います。 この資料は、自分自身の言動のパターンや感情の動きを掴むために日々、読み込んで利用することを目指していますが、せっかくこれほど多くの自己情報が集まってきていますので、それをもとに自分自身に関する過去の物語を一つ書いてみれば良いだろうと考えています。手元にある資料には、引きこもる要因になった過去の苦い記憶、現在の生活の苛立ちや焦り、未来の不安などが書き記されていると思います。そこの過去の部分を取り出して物語として封じ込める、けりをつける作業に心穏やかに挑んでみてはどうかと考えています。 部屋に引きこもる生活を続けていると、どうしても辛い過去の記憶や苦い昔の思い出が頭に浮かんできて苦しめられることがあると思います。それを資料作りとして書き出して、漠然としたものではなくて具体的な出来事として捉えようとしていますが、それでもしばしば過去に悩まされます。この過去という古傷に過剰に痛めつけられないために、資料として書き出している過去の個別の出来事を一つにまとめて物語に仕立て上げれば良いのではないかと考えています。過去をまるまる一つの物語の中に放り込んでしまえば良いのではないかと思っています。 資料作りの段階で、思い出したくもないのに頻繁にどうしても思い出してしまう嫌な過去を具体的に掴んでいく作業を行っていますので、そうやって得た散々な過去のそれぞれの記憶のパーツを組み合わせるようにして一つの物語にしていくということです。惨めな思いを今でも引き起こす過去に関する一つの大きな物語が出来上がれば、その中にもう見たくない過去は存在することになり、ある種、昔の痛ましい出来事との区切りや決別ができるのではないかと感じています。過去保管ボックスの

引きこもり当事者カラッと研究術 さいごに

 さいごに   53 歳の引きこもり(自分)に向けて 10年後、 2031 年に 53 歳になった自分に向けて未来を書くようにここまで書き続けてきました。コロナで仕事がなくなり日常に大きな空白の時間がぽっかりと開いて、それを埋めるかのように書く行為が入ってきました。どのようにこの膨大で真っ白な時間を使うことになるのかと少し他人事のように一年以上にわたって観察していたところ、書くことが新たな日常の行為として定着してきました。そして、毎日、毎日、飽きもせずに書き続けながら、結局、引きこもるという行為を考えるようになりました。やはり、ここが根源のようです。ここを避けて通ることはできないようです。これからも見つめていくことになるのだろうと思っています。 それにしても、 2031 年に 53 歳になった自分はどういうふうに10年前に自分が書いた文章を読むのでしょうか。そこに書かれたこととは全く違った道を歩んでいるのでしょうか。それとも書いたことを真に受けてもろに失敗してしまっているでしょうか。いずれにしても、未来を書く行為は、面白くて楽しい営みだと思っています。 実際に未来を書いてみても今も不安や悩みに苛まれることが多々ありますが、それでも書き続けるという人生の最終目標を手に入れたことで不思議と満たされた気持ちになっています。自分は満ち溢れている、もう大丈夫だ、と本当に不思議なのですが思ってしまいます。何の根拠も全くないのにです。だから、部屋に引きこもって悩み苦しんでばかりいるならば、ひたすら書き続けてみれば良いと思います。必ず何かの助けになると信じています。 また、大量の空白の時間を日常の中に与えられたことで、空の写真を携帯電話で撮るようになりました。日常に夕暮れの空を眺めて写真に収めるという空の揺れ動きを感じる時間が入ってきました。ずっと動き続けている空の一回性を見つめながら、何も変わらない見飽きた退屈な日常というものは存在しないのではないかと思い始めました。しっかりとよく見ていなかっただけかもしれないと感じてきました。同じ空がないように、同じ日はないですし、当然、毎日、自分も歳を取っていきます。死に向かっています。変わらないものはないし、すべては揺れ動いています。それを全く同じだと見なすのは、そう思い込んでしまっているだけではないのか。