2-2. 独り言のバリエーション キャラクター作り
人工物に対する独り言 そこにある物体、物たち
次は、生きていない物、人工物を独り言内対話の対象にできるか見ていきます。生き物や自然物ではない物に話しかけられるかということになりますが、これは普段の生活でもすでに行なっているだろうと思います。物に愛着を感じるということがありますが、それはその物と自分との間にある関係が作られているということだと思います。実際に物に話しかけないかもしれませんが、そこには何らかの対話が発生しています。
特に子どもの頃に大事にしていたぬいぐるみ、人形、本、おもちゃなどは、今、使うことがなくてもなかなか捨てられないという感情が湧いてきます。物が単なる使い捨ての物体ではなくて、そこに何かが宿っているという感覚をおぼえます。お墓参りでも、墓石という石を前にして拝みますが、それは物体としての石に話しかけているわけではなくて、そこに宿る祖先や死者に語りかけているのだと思います。聖遺物などもその物自体ではなくて、その後ろに広がる関係が大切になってくるはずです。だから、もしその物が表す関係を感じられないなら、その物は単なる物体でしかなくなって、使わないのだから、必要ないのだから、捨てれば良い、というような考えになっていくのだろうと思います。
物と何の関係も結ばないこともありますが、物に名前を付ける行為や物を自分の所有物だと見なす感覚が、物と自分との関係を発生させる契機になるのかもしれません。ただ必要だから、便利だから使うというのではない、その物でないと駄目だというような唯一性の関係が結ばれるのだろうと思います。
物もある意味生きていて、こちらに語りかけてくるし、こちらも話しかけるというようなことは子どもの頃はよく経験していたはずです。人工物と生き物や自然物を区別するという感覚が薄く、何とでもコミュニケーションできるし、実際にしていたのかもしれません。
そう考えていくと、独り言内対話の相手として人工物も対象にできるはずです。実際に今の生活で愛着を感じている物や捨てられない物があると思います。そのすでに何らかの関係を結んでしまっている物体に話しかけることから始めてみます。声に出して物に話しかけるのは変な感じがするかもしれませんが、部屋の中で一人で簡単にできることですので試してみます。それに、SNSで誰にという具体的な対象者も定めずにつぶやくのも、それはそれで変な独り言のように感じますし、気にせずに大いに物に話しかけてみます。
また、話しかけるだけでなく、物からの語りかけにも耳を澄まします。まだ名前がないなら名前を付けてみて、さらにコミュニケーションしている感じを出すために物の顔を特定してみます。そして、その物の顔の目と視線を合わせて対話してみます。目が合うだけでずいぶんと話している感じが増すと思います。普段の生活でも目や視線から話している内容以上の多くの情報を得ていますので、物の目を見つめることは大切なことだろうと感じています。話さなくても目を見るだけでその人の状態がある程度分かってしまうこともあるようですし、生きていない物と話す時は特に目を重視してみます。
何を物と話すかということは何でも良いですが、すでに愛着がある物とは思い出話やなぜそれほどその物を大切にしているかを話せば良いと思います。視線を交わし合う関係を築いてみます。そして、その次にそれほど愛着も重宝もしていない使い捨てのような物と対話してみます。対話してみようとすることで、その使い捨ての物と自分との関係がどう変わるかもチェックしてみると興味深いです。テーブルの上にずっと置かれたままその存在すら忘れてしまっていた鉛筆が、今までと違った姿を現すかもしれません。それはそれで驚きに満ちた楽しみを与えてくれるはずです。また、そうすることで、一人でいる部屋の中が賑やかなものになってくるかもしれません。何とコミュニケーションするかは本人の自由ですから、人や生き物や自然物だけに限定して対話の幅を狭めてしまわないようにすべきだと思います。
積極的に物と対話しながら、物も独り言内対話の登場キャラクターになるように作り上げていきます。人工物も独り言内対話に不可欠な要素です。人や動植物や自然物だけでなくて、その場に存在する物にも意識を向けることで、独り言内対話がさらに充実したものになってきます。もし仮に実際に物に言葉をかけることが独り言内対話中になかったとしても、そこにその物があることを感じているかどうかで独り言としての対話の質も変化してくると考えています。
家の中に仏壇があるだけでその場所の雰囲気は明かに変わってきますし、そこに住んでいる人たちにも影響を与え、そこで話される内容にも変化が生じてきます。その場にある物に普段、それほど意識を向けていないかもしれませんが、確実に何らかの影響をそこにいる人や生き物や自然物などに与えているはずですから、自分で対象者や対象物自体も作り上げてしまう独り言内対話の中にも物の存在を導入してみます。
独り言内対話でも話しをしている相手と自分だけにすべての注意を向けがちですが、そうではなくて合間、合間にキャラクター化した物、例えばテーブルの上に置かれたペンと視線を合わせるなどすれば面白いだろうと思います。そのようなことが自然にできるようにしっかりと物と向き合ってキャラクター化しておきます。その物をじっと観察して、名前を付けて、目を合わせて、擬人化して、イラストも描いてみます。そして、部屋の中でテレビを見たり、ゲームをしたり、ネットをしたりしている時などに、ふとその物の存在を感じてみます。そうやって物を独り言内対話の登場キャラになるまで仕立て上げていきます。
目に見えないものに対する独り言 願いや祈り
今度は、目に見えないものに対する独り言内対話を考えてみたいと思います。目に見えないものが実在するのかどうかは脇に置いても、日常生活でも目に見えない何かの存在を感じているのではないかと思います。初詣や合格祈願、お守りや占い、幽霊やお化け、精霊や霊魂、神さまやお天道さま、色々な形で何か目に見えないものにお願いしたり、祈ったりしていると思います。
この世を超越した何かの存在をそれほど意識的でないにしても感じながら日々の生活を送っているのではないかと思います。しかも、その感覚なしに生きていくのはかなり難しいのではないかとも思ってしまいます。それほど、目に見えないこの世を超越したものの存在が、人が生きていく枠組みを与えているように感じます。
たとえ無神論であっても、何か目に見えないものに願ったり、祈ったりする時があります。テレビで毎日、「今日の運勢」、をチェックするのも何か目に見えないものが実生活に影響を与えているからのように感じます。今日のラッキーカラーは何色です、という言葉は一体、誰が発しているのでしょうか。そして、その言葉を受け入れて、その色の服を身につける自分は、何に影響を受けて何を感じたのでしょうか。そんなテレビ占いに反発することは何を表しているのでしょうか。
また、聖なるものを汚すことで、もしくは何かの封印を解いてしまうことで、祟られる、呪われる、という感情が呼び起こされるのは何なのでしょうか。そのような行為を実際に自分が行なうことがなくても、アニメや漫画や映画でそのようなシーンが出てくると、呪われても仕方がないと妙に納得してしまうのはなぜなのでしょうか。また、お守りをゴミ箱に捨てられないという感情は何なのでしょうか。程度の差こそあれ、普段の生活でも何か目に見えないものを感じているだろうし、触れているだろうと思います。
先ずは、その日常生活での感覚を取り出して観察してみます。現世の外に存在するような何かを普段の生活でどのように感じているでしょうか。もうこんな引きこもりライフは嫌だ、どうなってもいい、とにかくこの状態から逃げ出したい、何とかしてくれ、というような叫びは誰に向けて放たれているのでしょうか。自分自身に向けてつぶやかれているような独り言も、実は自分を通り越してもっと何か名状しがたものに対して訴えかけているのかもしれません。
また、何か心が揺れ動く時、何かに感動する時、それはその対象物に対して、というよりもその背後に何か目に見えないものを感じているからかもしれません。そもそも精神活動というものは、直接、目には見えませんが、存在するものとして受け入れて普段の生活を営んでいるわけですから、この世の外の存在を感じることも何ら不思議なことではないとも思えます。ですから、おそらくそれほど意識的でないにしても目に見えないものを日々の生活でも感じているはずですから、自分はどのようにこの世の外と接しているか、またそういう目に見えないものに対して、日ごろ、どういう態度を取っているかチェックしてみます。
普段の生活での目に見えないものとの接し方を確認してから、今度は現世の外の存在に話しかけてみます。日常生活でもこの世の存在でないものに何かを願ったり、祈ったりしたことがあるはずですので、その延長線上のように話しかけてみます。ただその時に、一方的にこちらからお願いやお祈りを捧げるのではなくて、向こうもこちらを見ている、つまり、こちらも向こうから見られているという双方的な対話にしてみます。お願いします、お守りください、と頭を下げるだけでなくて、その頭を下げてお願いしている自分を向こうも見つめていると思ってみます。物に対する独り言の時と同じように、目に見えないものと視線を合わせてみます。向こうもただお願いやお祈りを聞くだけの受け身の存在ではなくて、見つめ返す能動的な存在として対話してみます。この世を超越したものの視線を感じてみます。
その眼差しを独り言内対話の対象として取り入れてみます。自然が見ている、動植物が見ている、物が見ている、さらにそれに加えてこの世の外の存在が見ているという感覚を導入してみます。そして、こちらを見つめてくる存在をこちらも見つめ返します。そうすることで、ますます独り言内対話の深みが増すだろうと思います。
目は口ほどに物を言う、ではありませんが、独り言内対話では眼差しをかなり重視してみます。だから、目に見えないものを独り言内対話中の登場キャラクターに作り上げていく時に、目だけの存在としても良いかもしれません。目に見えない存在が、目だけのキャラクターになるというのも矛盾しているようで面白いかもしれません。
独り言内対話で直接、この世を超越したものと話し合うとなると、先ずは自分が何か願望を伝えて、それに対して向こうが何か答えるという形式から始めるのが良いように思います。そうではなくて、もっと世界や実存の根源を問うようなものでも良いかもしれませんが、堅苦しくなり継続していくのが難しくなるかもしれません。一回試してそれで終りでは面白くありませんから、長く続けていけるようなキャラ設定が大事になってきます。
普段の生活で目に見えないものの存在を意識する機会があまりないかもしれませんので、独り言内対話のキャラ作りとして現世外の存在を感じてみるのは、それだけでも良いことではないかと考えています。それによって、独り言内対話のバリエーションだけでなくて、日々の生活も豊かなものになっていく可能性があるだろうと感じています。とにかく、向こうからの視線を感じるだけでも、何か変化がもたらされるはずです。
宇宙に対する独り言 驚きや感嘆
次は、この地球を飛び出して宇宙に対する独り言内対話を考えてみます。太陽があり、惑星や衛星があり、星があり、月があり、太陽系、さらに銀河系があったりする宇宙空間というものは一体、何なのだろうかと思うだけでも不思議な感覚になってきます。月の重力が地球の六分の一だと聞くだけでも驚きがあり、無重力空間というのがこの地球の外にあるのも妙な感じがしてきます。
今、人類が存在している地球の外にも広がりがあるということが、信じられないような感嘆の気持ちを抱かせます。宇宙空間がどうなっているのかという知識や情報を集めるだけでも、一体、自分は今何を調べているのだろうかとよく分からない感覚に陥ってしまいます。
どうしても今の自分の個人的な悩みや問題に意識を注いでしまいがちですが、そこに地球外の宇宙空間というものが介入してくると、その壮大さや奇怪さに自分の悩みなど本当にどうでも良いことだと思い知らされることがあります。光すらも逃れられないブラックホールなどと聞かされたら、何がどうなっているのか分からなくて頭がくらくらしてきて、自分の小さな悩みなどは一瞬で吹き飛んでしまいます。
ですから、そういう自分の些細な悩みや不安を消し飛ばすために宇宙空間に思いを馳せるのもありだと思います。それぐらいの威力は、軽く宇宙空間は有しています。そういうふうに宇宙というものを利用しても良いはずです。やはり、日常を飛び越えた驚きや感嘆は、日々の生活の苦悩や心配事が本当に小さなものであると知らせてくれるのかもしれません。
宇宙空間を思い浮かべたり、目に見えないものを感じたりすることは、独り言内対話を日常というものに限定されたものにさせないためにも重要だと感じます。日常的な驚きの外にある驚愕という感情が、独り言内対話を普段の生き方の外に連れ出してくれるのではないかと思っています。そのためにも試しに宇宙に関する知識や情報を本や動画や映画などで得てみます。そんな奇妙な空間が、自分が今、生きている地球の外にあるという事実に対してどのような感情が沸き起こるかチェックしてみます。
そして、その宇宙空間も独り言内対話の対象としてみます。直接、宇宙と対話するというのは難しいかもしれませんが、地球外生命体を持ち出してみて対話のようにするのは面白いかもしれません。目に見えないものの存在のように宇宙もこちらを遠くから見つめているという感じになると思いますが、超越したものとはまた別の俯瞰した視線を宇宙空間を導入することで得てみます。何重にも重なるこちらを見つめる視線というのを用意しておけば、それだけ独り言内対話を充実したものにできます。
目に見えないものとは違い、宇宙空間に存在する惑星や衛星や流星などに関しては画像を見ることができますので、それをもとに自分の独り言内対話の登場キャラに作り上げてみます。そうやってキャラクター化していきますが、宇宙キャラについてはそれほど人に寄せないほうが良いのではないかと思っています。
宇宙は、今も未知で得体のしれないものとして存在しています。未だに人類がよく分かっていないものに触れている感覚がありますが、独り言内対話の登場キャラとして人に近づけすぎると理解可能なものに成り下がってしまうリスクがあります。未知で得体のしれない不気味な存在というものも必要だと思っています。
理解を越えたものの存在が、独り言内対話を生き生きとしたものにしてくれるはずです。どうしても独り言ですから、対話といっても自分で相手側が話すことも作り上げていきますので、すべてを自分がコントールしている感覚に陥る危険性があります。そうなると、今の自分の枠内ですべて事が済んでしまうことになり、独り言内対話に面白味や新鮮味が欠けて続けていく意欲をなくしてしまうかもしれません。
すべてを自分一人で組み立てていくからこそ、自分では理解不可能なコントールできないものの存在を導入することが重要だと思います。予定調和すぎる独り言内対話ばかりを続けていると必ず飽きてしまうはずです。驚きも感嘆も全くない独り言内対話を延々とやり続けるのは苦痛になってきます。
だから、目に見えないもの、物、自然物、宇宙空間というようにこちらからは向こうの考えや思惑が全く分からないものを独り言内対話の中に溢れさせることが大切になってきます。そういう日常から外れたものが、何か活力のようなものをこちらに与えてくれるようにも感じています。
自分の考えや悩みには、ある種の通学路のような毎回、通る道が存在していると思います。何度も、何度も通ることで見慣れたものになり、何の心配もなく安心して目をつぶっていても通ることができるほどの道になっています。それはそれで良いことだろうと思いますが、その通学路の道にあまりにも慣れ過ぎて、他の道が全く存在しない、この道一本しかないという感覚になってくるかもしれません。
そうなってしまうと、本当は無数の脇道が幾重にも広がっているのに、その道一本しか見えなくなってしまって窮屈になってきます。その通学路に関しては隅から隅まで知り尽くした気持ちでそこを通っていると安心できますが、理解可能で予定調和なことしか起こらずに段々とつまらなくなってくると思います。その通学路から一歩、別の脇道に足を踏み入れれば、たったそれだけで自分が今まで一度も通ったことがない道が広がっています。いつも同じ通学路を通っていたのでは感じられなかった感情や考えや不安が生じます。それは、恐怖心を引き起こすものでもありますが、それが通学路ばかり通る日常に活力を与えてくれるように思います。少なくとも、いつも通る通学路以外にも道は広がっているという感覚を与えてくれます。そうなると、もし仮に通学路が急に封鎖されてしまっても、それなら別の道を歩もう、と思えるのではないかと思います。
だから、独り言内対話も通学路のようないつも同じ道を通るようなものばかりでなくて、目に見えないもの、自然物、物、宇宙空間などといったよく分からないものを介入させて、色々な道を歩むようにすれば楽しくなってきます。
無に対する独り言 空間との対話
次は、対象がない独り言内対話を見ていきたいと思います。自分自身に対してでもない何もない無と向かい合ってみる行為です。空(くう)と対峙する独り言内対話ということになりますが、言葉を発しない対話というものを目指してみます。無言の独り言内対話であり、声に出さないだけでなくて心の中で言葉をつぶやくこともやめてみます。
言葉に頼らない、言葉が介入しない対話というのを無に対する独り言内対話で試してみます。どうしてもコミュニケーションする時に言語に頼ってしまいますが、可能な限り言葉を脇に置いて、無と対峙してみます。言葉を間に入れずにコミュニケーションできるかという実験でもあり、全く何もない空(くう)と言語空間の外で向かい合うことを目標にします。
言語空間の外に出てみようとする試みは、これもまた目に見えないものの眼差しを感じてみようとするように日常の外を意識することになり、独り言内対話を日常だけに閉じたものにしないために必要不可欠なことだと考えています。沈黙の時間を意識的に確保して、無言のまま言葉さえも放棄してみます。
でも、そんなことをしていると時間の無駄遣いに思えてきて、また、言語も介さない何もしない行為ということで、一体自分は何をやっているのだろうかと感じてくるかもしれません。そして、時間がもったいない、もっと別の有意義なことをしないといけない、と焦ったり、苛立ったりしてくるかもしれません。でも、そうやって常に時間に追われて焦燥感だけを抱いても、充実した時間というものを過ごすことができないのではないだろうかと思っています。時間を無駄にしてはいけないと、いつも焦って苛立って何かに追われながら日々の生活を過ごしてしまうと、充実というものが得られにくくなってきます。常に急かされている感じがして、落ち着くことができません。何かを行なっている時は、その行為自体を充実させてみるという視点が重要ではないかと感じています。
焦って急いである行為を行うと、すぐにそのことを処理することはできるかもしれませんが、また次のことを大急ぎで探して片付けていくことになり、ある行為を行なっているその瞬間を満たすことはできないように思えます。そのように一日24時間すべてを過ごしてしまうと、満ち足りた時と空間というものが全く存在しないことになりかねません。
言語空間の外に出て無と対峙することが満ち足りた感覚を確実にもたらすかどうかは分かりませんが、言葉さえも放棄してみるのですから、当然、日常の時間の流れも手放して、ゆったりと時間に追われずに焦らずにその時を過ごしてみます。日々の生活から見たら時間の無駄かもしれませんが、その瞬間を充実させるという点から見れば、言語を排除した無との対話も良いものではないかと思っています。
独り言内対話の中に無の時間を導入することで、一人だけでひっきりなしに話す空間に隙間ができてきます。本当に何もしていない沈黙の時空間というのを感じてみます。また、今までは独り言内対話の登場キャラとして様々な人や動植物や物をキャラクター化してきましたが、この無、空(くう)に関してはそれをしないでおきます。キャラクターでもないものが存在する場というものも必要だろうと思います。さらに、こちらを見つめる存在でもなくて、ただそこにある存在としてみます。他の独り言内対話の存在とは全く別のものにします。
こちらが見つめることも、向こうから見つめられることも、視線を合わせることもできない全く異物のような存在が、独り言内対話というものを日常と非日常という枠組みからさらに遠く離れたところに連れていってくれるかもしれません。そこに充実した時空間というものがあるのかもしれません。少なくとも焦ったり、苛立ったり、何かに追われたりという感覚からは少し距離が取れるようになるのではないかと考えています。言語空間の外に出てみようとするだけでも、そのような普段の生活で感じている感覚から外れてしまうはずです。
日々の生活はすべて言葉によって決められているといっても過言ではないような状況ですが、そこから出てみようとすることはそれだけで普段とは違った感覚を与えてくれます。ですから、是非とも無や空(くう)と向かい合う時空間を独り言内対話に導入しておきます。たとえ上手く言葉の外に出ることができなくても、試してみるだけの価値はあるだろうし、そういう言語空間外の時空間を感じてみようとすること自体が、普段の生活に変化を与えると思っています。
ここまで、独り言内対話のバリエーション、キャラクター作りとして様々な人や物などを対象とすることができるかどうかを見てきましたが、これらは基本的に独り言の発話者が自分、自分が主体として対象者や対象物と接するというタイプのものです。次は、自分が独り言の発話者でないような独り言内対話というものを考えてみたいと思います。
発話者が自分ではない独り言 主客の入れ替え
独り言内対話中の登場キャラクターをいろいろと作り上げて、対象者や対象物が自分に独り言内で話しかける内容まで考えてみますが、ただそれだけだと独り言内対話を長く続けていくことが難しいのではないかと考えています。自分が発話者として主体的に独り言内対話を方向づけて、流れを決めていきますが、常に自分が主体で、その他の登場キャラは客体と決めつけてしまうと、独り言内対話が窮屈なものになってしまいかねません。
役割を完全に固定してしまうと安定や安心はしますが、通学路の例えのようにその道一本だけという自分で自分をそこに閉じ込めてしまうリスクもあります。普段の人との会話でも、どんなに事前に何を話すか、相手がそれにどう答えるかを色々と想定していたとしても、実際の会話は、自分の想定を越えて思いもよらない方向に進んでしまうことがあります。どうしても予測できない部分が残ります。また、もし人との会話が自分の想定内のものに収まってしまうなら、その会話は情報伝達のためだけ、あるいはコントロールするためだけのものである可能性が高いように思います。本当は何を考えたり思ったりしているのか分からない他者との会話が自分が考えた枠内から出ないというのは、そのほうが問題であるとも言えるかもしれません。定まらないでふらふらと揺れ動く部分を会話から削り取ってしまうことで人との会話で得られる何かを手放しているのかもしれません。人と話すことの不思議さや奇怪さを捨て去って、すごく限定されたものにしてしまっているのかもしれません。
だから、会話や対話のその未知の部分を完全に排除してしまって、独り言内対話の登場キャラを自分の想定内に閉じ込めてしまうと、すべてが予定調和な面白味を欠いたものになってしまいます。向こうが主体的にこちらに勝手に話しかけてきて、自分はその発言に対して受け答えするという独り言内対話も必要になってきます。受け身の姿勢で独り言内対話が発生するのを待ってみます。登場キャラのほうから話しかけてくるのをじっと待ちます。独り言という一人だけの時空間で、あえて自分が主体ではなくて、客体として向こうから話しかけられるのをひたすら待ち続けてみます。
そこには、自分が用意した想定内の対話ではないものが立ち上がってくるはずです。独り言内対話を登場キャラも含めてすべて自分が作り上げたというよりも、自分の手が及ばないところで勝手に作り上げられてしまったという感覚を味わってみます。実は、向こうが主体でこちらは客体で、自分が主体的な発話者ではなくて向こうが主導権を握っている感じです。主客が逆転して、こちらがコントロールしているつもりが、実際はコントロールされてしまっているというような分からなさを独り言内対話に導入してみます。
分からなさを嫌って分かりやすさだけを求めてしまうと、独り言内対話が本当にシンプルで単純なものになってしまって楽しさを失ってしまいます。分かりやすさだけを前面に持ち出してしまうと、分かりやすいだけにすぐに飽きてしまうリスクがあると思います。だから、自分がすべて想定できる範囲内だけに独り言内対話を閉じ込めずに、勝手に向こうから飛び出してくる想定外の時空間に身を任せることも重要だろうと考えています。分からなさを手放さないことが独り言内対話を継続していくための大切な点ではないかと思います。
不思議さ、奇怪さ、分からなさが、対話を自分の考えが遠く及ばないところに向かわせる手助けになるかもしれないと考えています。もうすべて先が決まっていると思える生活は、生きる活力を与えるどころか奪ってしまうのではないかと思います。お先真っ暗だからこそ、この先どうなるか分からないからこそ、生きる力がみなぎってくるのではないかと思っています。自分の周囲をすべて分かることで固めてしまうと安心、安全は得られるかもしれませんが、生きていこうという意欲が削がれてしまうように感じます。不安にかられて異物を完全に排除してしまうことは、逆に危険なことではないかと思います。不安定だからこそ、先が決まっていないからこそ、何でも試してみえる隙ができるのではないかと思えます。何も試してみることができない隙がすべて埋められてしまった盤石な生活というのは、本当は脆くて人から活力を削ぐ危険なものであるかもしれません。人が本来持っている力を吸い取って何もできない存在にしてしまうのかもしれません。そうならないためにも独り言内対話の中に分からなさを潜ませておきます。不可解な部分があることで独り言内対話が生き生きとしてくるだろうと考えています。
と、ここまで色々な視点から独り言内対話の対象のバリエーションを見てきました。これだけ多くの登場キャラクターを準備してきたのですから、後は実際に独り言内対話を部屋の中で一人で実践していくだけです。次は、どういうふうに独り言内対話を行なうかという方法論を見ていきたいと思います。充実した独り言内対話を目指して様々なやり方を試してみます。
コメント
コメントを投稿