3-2. 独り言劇場へ
3つの視点の導入(話し手、聞き手、俯瞰)
自分の笑いをベースとして独り言劇場を進めていきますが、そこに3つの視点を意識的に導入してみます。話し手、聞き手、俯瞰という3視点です。人が何かを話したり、伝えたりする時は、大抵、何らかの意図があります。また、その話しを聞いている相手方も何らかの意図を持って聞いています。その2点とさらに話し手からも聞き手からも離れたところからその会話を眺める視点が存在します。この3つの視点を独り言劇場内に取り入れてみます。
まず、語り手の視点ですが、何を相手に伝えたいのか、何を思って、または何を考えて話しているのか、どういう立場や立ち位置から話しているのか、その発言で相手をどうしたいのか、などを見てみます。人に話しかけるということは、何か言いたいことがある、または何も言いたいことがなくてもその場が気まずくて口を開くのだろうと思います。また、発せらた言葉は、発話者の真意を表していない場合もあります。発話の意図は、口に出された言葉の裏に隠されていることもあります。
単純に口を開いて話しているようでいて、そうではないということです。自分が何か話す時を考えてみてもそうだと思います。本当の自分はそんなことを言いたくないのに立場上そのような発言をするということもあるはずです。そうなってくると、その発言の本当の発話者は誰なのか、誰がそのことを言っているのか、自分はただそのように言わされているだけなのか、とわけが分からない状況になってきます。
ただ単に情報を伝達するために人に話す場合であっても、その情報伝達とともに相手をどうしたいのかという発話者の意図もそこにはあります。ある行為を人にお願いする発言を行なうことで、自分の言う通りに相手を動かしたいという意図が働いているかもしれません。一見すると話すという行為は簡単なように見えて、かなり複雑なことを行なっているようです。
話すという行為が、少し考えてみただけでもかなり込み入ったものだと感じられるわけですから、独り言劇場でも話し手の言葉に注意を払ってみます。独り言内対話での発話者の発言を一つ一つ見ていきます。立ち止まってその発言の意図や発話内容を吟味してみます。どうしてそういう発言をしたのか、どういう立場からその言葉はつぶやかれたのか、といったことを見てみます。人に話す行為の不思議さを感じてみます。
そして、次はその発言を受ける聞き手の視点を見てみます。話し手に意図があるように聞き手にも当然、意図があります。話し手がある意図をもって相手に話したとしても、その意図が伝わるとは限りません。誤解や勘違いが生じる可能性があります。聞き手が、何を聞いているのか、もしくは何を聞きたいのか、発言の意図をどう読んでいるのか、ということも関わってきます。また、聞き手の立場や観点も関係してきます。
話し手もそうですが、聞き手も一筋縄ではいきません。もうそうなると、言葉のやり取りで実際のところは何を行なっているのかよく分からなくなってきます。人は、かなり複雑で不思議なことを日々、行なっていることになりそうです。会話や対話というものは、そもそも奇妙なもののようです。人と話すというのは、妙で不思議な体験なのかもしれません。
自分が話し手になったり、聞き手になったりしながら進んでいく会話の奇妙さという点に焦点を当ててみます。人と話すという行為自体ではなくて、その行為が持つ不思議さに関心を寄せてみます。人と話すのは本当に変なことです。日常的に行なっていますが、そこで本当は何が起きているのかよく分からないまま始まり、そして終わっていきます。一体、人は何を話したり、聞いたりしているのでしょうか。その不思議な感じを独り言劇場にも取り入れてみます。
そして、さらに俯瞰という視点から人と話す行為を見てみます。そうすることでますます会話の不思議さや奇妙さに目が向くと思います。俯瞰ですから、話し手や聞き手という立場から離れてその会話を眺めてみます。そうすると、一体、この人たちは何を話したり、聞いたりしているのだろうか、と妙な気持ちになってきます。話し手からも聞き手からも距離を取った立場ですから、それぞれのバックグラウンドや考え方の枠組みもチェックできるところにいます。どうしてそういう話し方をするのか、どうしてそういう聞き方をするのか、何がそんな話しを話し手にさせているのか、何がそのように聞き手に聞かせているのか、何がそのような解釈を生んでいるのか、といったことを見てみます。また、会話の流れの中で無視されていく情報、取りこぼされていく発言にも関心を寄せてみます。
この俯瞰という視点を入れることで、本当に人は話すという行為で何をしているのだろうかとますます不思議に感じてくるはずです。また、会話や対話にも様々なタイプのものがあることも気になってきます。話したいことだけを話して、聞きたいことだけを聞く会話や対話というものは、果たして人と話していることになるのだろうか、といった疑問も出てきます。
話すという行為の不思議さに魅かれて、じっと人の会話を観察してみたくなります。でも、じろじろとあまり他人の話しをチェックするのも良くないですから、独り言劇場内でやってみます。様々なキャラクターが独り言内対話に登場しますが、彼らは何を話したり、聞いたりしているのでしょうか。独り言内対話で何をやっているのでしょうか。当然、その中では齟齬や誤解や勘違いが生じてきますが、どうしてそんなことが起きるのでしょうか。その辺りの話す行為の奇妙さを感じながら独り言内対話を続けてみます。そうすることで、独り言劇場をただ単に物語の側面からだけでなくて、また別の角度からも楽しめると考えています。
独り言劇場の開演・終演時間を決める
独り言劇場を開いていく上で開演、終演時間を決めておくことも大事だと考えています。一回、独り言劇場を開いてそれで終わりということではありません。日々、続けていくことでどんな変化や違いが生じるのかを感じるのも楽しみの一つです。ランダムに気が向いた時だけ独り言劇場を行なうというやり方もありますが、そうすると早々に飽きてしまうのではないかと思います。適当に時間も決めずに好き勝手にやることが飽きに直結し、時間を決めてその枠内でやることが継続につながるのではないかと考えています。上手くいこうが、いかなかろうが、毎日、時間を決めて行なうことで変化や違いにもより気づけるはずです。
日課のように、ルーティンワークのように、日常生活の中で今までしていなかったことを毎日、一定の時間することになるわけですから、日常の時間の使い方が変わり、生活スタイル自体も影響を受けてきます。そうすると、変化や違いは何も独り言劇場内にとどまりません。日常の中に独り言劇場を取り入れてしまいます。一日の一定の時間をそれに割り当ててみます。そうすることで、独り言内対話が日常生活の一部になってきます。自分の日々の生活に必ずあるものになってきます。今まで自分の日常になかったものが、一日24時間を構成する要素の一部になります。
極端な言い方をすれば、それで自分の日常が変わってしまいます。日常生活全般に影響が生じます。もう以前とは一日24時間の時間の使い方が変わったのですから、当然のことです。それを、気が向いた時だけ単発で独り言劇場を開いてしまうと、ライフスタイル全体にまで広がる波及効果を期待できません。
ですから、先ずは、日々の生活のどの時間帯に独り言劇場を入れるか決めてしまいます。現在の一日24時間の時間の使い方を確認してみて、どこに独り言劇場を入れるのが良いのか考えてみます。朝起きて直ぐか、それとも昼食後か、または、夜寝る前か。色々とどこに入れるのが相応しいか試してみます。実際に様々な時間帯で実験してみて、一人でゆっくりと独り言劇場を開ける時を見つけ出してみます。ゆったりとした時間が流れる中で一人でのんびりとした気持ちで独り言内対話を行ないます。その時間を無駄だとか、浪費だとかと思って焦ったり苛立ったりせずに、独り言劇場を充実させてみます。そういう時間の使い方も日常生活に影響を与えてくるはずです。
そうやって開演時間を決めてしまえば、その時間帯は独り言内対話だけを行ないます。その時間は独り言劇場専用のものですから、他のことはしません。たとえ自分が思っていたように上手に独り言内対話が運ばなくても、その時間内は続けてみます。また、全く何も独り言内対話が浮かんでこなくても、ずっと待ってみます。その時間はそれだけに集中してみます。そうすると、きっと何かが出てくるはずです。何もせずに部屋の中で一人でじっと独り言劇場のことを考えて待っていると、何かしらのアイデアが浮かぶはずです。他に何もしていないのですから、いつかは何か良い案が出てきます。そして、そのアイデアを直ぐに試してみます。上手くいこうが、いかなかろうが、明日もまたするのですから、気楽に実験してみます。そのようにして、日課として、ルーティンワークとして、独り言劇場を日常に取り入れていきます。
また、日課として毎日、続けていくためにも終演時間も決めてしまいます。日々、何時から何時まで独り言劇場を開くと決めてしまいます。明日もまたするのですから、それほど長い時間はやりません。一日だけ十何時間とずっと独り言内対話を行ない、その後、一週間全くやらないというのでは、日課にもならないですし、変化や違いも感じられません。そうではなくて、短い時間だけ毎日、行なうことにします。
始める時にすでに終わる時間も決まっています。その決めた時間で終わらせます。どんなに何も思い浮かばなくても、その決めた時間までは他のことをせずにじっと待ちます。また、逆にどんなに独り言内対話が興に乗って面白いように進んでいたとしても、時間が来たら止めてしまいます。一日だけ上手くいっても意味がありませんから、明日に回してしまいます。明日もまた独り言劇場を開くことのほうが、今日上手くいくよりも重要ですから、そうしてしまいます。
そして、日課としての独り言劇場の時間というものだけを考えてみます。独り言内対話の内容ではなくて、時間に注意を向けます。1時間ほど開演時間を早めたほうが良いのか、30分ほど終演時間を遅らせたほうが良いのか、などと時間の調整をしてみます。一日の中のどこにどれぐらいの時間、独り言劇場を入れるのが適切なのか探ります。新たな日課ですから、初めのうちは試行錯誤が必要になります。当然、独り言内対話に毎日、時間を割くようになるわけですから、何か別の日常的に行なっていることを止めることになってきます。何かの時間を削る必要が出てきます。
今の日常で何をしている時間なら削ることができるかと考えて、そこに独り言劇場を入れてみるのも手です。日常の時間の使い方を見直してみます。自分はどういうふうに一日24時間を使っているのか確認してみるのは、それだけでも何か発見があると思います。こんなことにこんなにも多くの時間を使っていたのかという驚きがあるかもしれません。そして、減らしても問題がなさそうな時間を見つけ出して、そこに独り言劇場を替わりに入れてみます。日常の時間の使い方を少しずつ調整しながら、独り言劇場を行なうのに最も相応しい時間を探し出して日課としてやり続けてみます。
独り言劇場の公演ノートを書く
日々の日常生活の中に独り言劇場を取り入れていきますが、毎回、やりっぱなしでそれで終わりではもったいないですし、面白味に欠けるだろうと思います。ただ毎日、日課として行なって過ぎていくだけの流れ作業のようなものになってしまう恐れがあります。ルーティンワークとしてずっと続けていくからには、少しぐらいは上達や変化を感じたいものです。また、もし仮にいつも何も変わらないのであれば、続けていく動機を失くすかもしれません。せっかく、撮影や録音もしているのですから、それらを研究材料としてただ通り過ぎるだけの日課にならないようにします。
毎回、独り言劇場が終わった後に公演ノートをつけてみます。携帯で撮った動画を確認しながら、ノートに「今日の公演」について書き記してみます。言わば、独り言劇場を記録と記憶にとどめる作業を行ないます。やりっぱなしでは記録にも記憶にも残りにくいですので、それを形あるものとして公演ノートを書いていきます。
資料があれば、研究ができます。動画や音声を確認しながら、その日の公演の感想を書きます。ストーリー、キャラクター、独り言内対話の内容などについて記していきますし、また、自分の姿や動き、声質や口調、視線や服装などもチェックしてコメントを残していきます。自己評価も記し、書きながら思い浮かんだアイデアや考えも書き残していきます。
自分で自分の姿を見ていると、自分はこういう顔で、こういう動きをして、こういう話し方をしているのか、と不思議な感覚になってきます。それを毎日、続けていくと、自分が思い描く自己像も影響を受けてきます。今までは自分で自分の姿を見る練習をせずに自己像を確定していましたが、独り言劇場が日課になってからは違います。自分で自分の姿や動きや話し方をある程度、しっかりとイメージできるようになってきます。そうなった時に自己像が影響を受けないわけはありません。独り言劇場を開きながら自分で思い描く自己イメージの変化も楽しめてしまいます。
さらに、動画や公演ノートを残しておくことで、後から見返したり、読み返したりできます。一か月後に改めて動画や公演ノートを確認してみると、その当時、どのように話し動いていたのか、どんなことを感じ、何を考えていたのかを知ることができて新たな気づきや発見があるかもしれません。また、独り言劇場に対する自己評価も変わっているかもしれません。その時は全く駄目だと思っていたのに、一年後に改めて動画を見返してみると、悪くないと感じるかもしれません。そのような移り変わりも楽しめます。自分の姿や考えや感じ方は一定だと思っていても、実はそうでないことが動画やノートを残していくことではっきりと分かってきます。また、そうはいっても一定で変わらないものが自分にあることにも気づかされます。
動画を撮って公演ノートを書いてそれで終わりではなくて、それらは記録と記憶として残っていきます。一年前の自分の姿や考えがそこには残っています。一年前の自分を見て、書いた文章を読める不思議さを味わえます。そこには変わった自分と変わらない自分が存在しているはずです。動画もノートも残していないと、一年前の自分の姿や考えを思い出そうとしても容易ではありません。曖昧なまま掴むことができません。一年前でなくても、一週間前の自分でもそうかもしれません。一週間前の自分と今の自分では何が変わって、何が変わっていないのか、掴むのは至難の業です。感覚的には何も変わっていないように感じても、変わらないということはあり得ないですから何かが変化しています。
そんな微妙な移り変わりも日々、日課として独り言劇場を開いていけば感じられます。また、独り言内対話の内容ややり方もいつも同じよに思えても決して同じではありません。少しの違いをも動画や公演ノートを利用しながら掬い取ってみます。一週間では差に気づかなくても、一年であれば違いが明らかだと思います。そして、一年の差を感じられるようになれば、一週間の違いにも気づけるようになるかもしれません。
そのようなことが携帯電話とノートがあれば可能になります。特に携帯で動画を撮って残しておくと、映像として昔の自分に出会えます。こんなに簡単に動画を残せる時代になったのですから、積極的に利用して自己像や自分の考えの変化を感じてみます。今まで自覚していなかった自分の癖や動きの特徴にも気づけるかもしれません。また、何年、何十年にもわたる独り言劇場の映像を確認することで、自分の癖や動きが変わっていくのも視覚的に分かると思います。
日課として、ルーティンワークとして独り言劇場を開いて、その様子を携帯で動画に収めて公演ノートを書いていくことで、自分でも思いもしなかったところに向かって行くかもしれません。どんなところに到達できるかは分かりませんが、独り言内対話を日常に組み込む前と後とでは生活が変わってしまうことは間違いありません。今までやっていなかったことに毎日、時間を費やすことになるわけですから、一日24時間の日常が変わってきて当然です。その変化を感じ取るためにもせっせと独り言劇場を開いて、動画を撮り、公演ノートを書いていきます。
ショートスパンではなくてロングスパンで見る
結果や変化を早く求めすぎて嫌になることがあります。思うようにいかなくて嫌気がさしてきます。そういう時はどうすれば良いのでしょうか。思い描いている理想の形を先ずは点検してみれば良いのではないかと思います。思うようにいかないと感じる時、もし思うようにいった場合の形というものをしっかりと掴んでいるでしょうか。上手くいかないと落ち込む時に、上手くいった場合はどういう形になるかちゃんとイメージできているでしょうか。
その理想の形をもっと具体的にしっかりと把握しておけば、思う通りにいかない時に、具体的にどこが上手くいっていないと感じているのか自分で自分に指摘できます。そうすれば、何となく思い通りにいかないと漠然と落ち込むのではなくて、どの部分をどう修正すれば良くなるかもしれないと考えることができてきます。
抽象的な悩みではなくて具体的な対策。そう考えるだけでも違ってきます。掴みどころがない悩みや不安や心配に際限なく苛まれるのではなくて、それを具体的なところまで引きずり出して分析してみます。漠然としているものにしっかりと明かりを当ててみます。案外、明かりを照らしてみれば、大したことではないかもしれません。暗闇に包まれているから、不安に駆られてどんどん良くない方向に考えてしまっているだけかもしれません。必要ない余計な闇を取り除いて、しっかりと問題を見つめてみます。そうすれば、あれほど悩んで落ち込んでいたのに、実際はシンプルな考えと行動で片が付くと分かる場合もあります。必要以上に怯え、恐れていたと分かります。具体的に物事を掴む練習を積めば良いだけです。
この具体化とともにショートスパンではなくてロングスパンで見ることも助けになります。短期的ではない長期的な視点。ショートスパンで見れば良いことが、ロングスパンで見れば良くないということがあります。また、逆にショートスパンで見れば良くないことが、ロングスパンで見れば良いということもあります。短期的に見れば、良くないことが続いているように見えても、その良くないことの連続が良いことをもたらすことがあります。何が良くて何が悪いかは、はっきりとはしていません。それは、人知を超えたものであるようです。
最善を尽くしても、それが裏目に出ることがあります。自分ではどうすることもできないところがあります。となると、良いこと、悪いこと、成功する、失敗する、と区別して一喜一憂するのはさほど意味がないように思えてきます。完全な情報を得ることは不可能ですから、どうしても不完全なまま考えて行動することになります。しかも、結果がどうなるかも分かりませんし、またその結果が次に何をもたらすのかもよく分かりません。そんな状況の中でよく日常生活を送られているとも感じてしまいますが、少なくともそんな不安定なよく分からない中で短期的に上手くいかなかったからと落ち込んだり悩んだりすることにはさして意味がないはずです。
ショートスパンで上手くいかなかったことが、後々、良き結果を導くこともありますし、そうならないこともあります。そこはどうなるか分かりません。人知を超えた分からないことですから、気にしても無駄です。自分で必死に悩んで考えて選択したはずなのに、その結果は自分ではどうすることもできない部分があります。不思議なことです。どんなに緻密に計画を立てても、どうなるかは分からないところがあります。妙な感じです。ひょっとして、すべては運なのではないかとも思えてきますが、少なくてもそんなことに嘆き悲しむという行為は保留したほうが良さそうです。
まして日課として継続していく独り言劇場の良し悪しをいちいち気にする必要はありません。短期的な視点で見て、くよくよしても仕方ありません。もしそれでやめてしまうことにでもなれば、そのほうが問題です。続けるからこそ、この先どうなるか分からないという未知の結果が待ち受けていますが、やめてしまえば、そのことに関しては先はなくなります。そこでストップしてしまいます。
やり続けていれば先はあります。それが何かを生み出します。良いことか悪いことか分かりませんが、何かが生まれます。やめてしまうと、それすらなくなります。さらに、継続できない自分を責めてしまう可能性もあります。そうなると、やめる理由はないように感じます。毎日、何も何時間も費やすわけではないですから、できないことはありません。
もし仮に続けていけないのなら、それはピントを近くに合わせすぎているからです。目の前の今日のその時間だけに合った照準。そこにしか焦点が合っていないので遠くが見えないのだと思います。同じ出来事を短期的、中期的、長期的という異なる視点から見てみます。それだけで同じ出来事の意味付けが変わってきます。
短期的に上手くいかなかったことが、長期的には良い方向に進む第一歩だったということもありますし、そうならないこともあります。分からないのです。分からないからこそ先に進めます。ずっと先まですべてのことが分かってしまっているのなら試してみる価値がありません。近視眼的に物事を捉えるだけでなくて、未知のロングスパンからも見てみます。その分からなさが、先に進む活力にもなります。分からないからできないではなくて、分からないからこそ試してみます。
日課としての独り言劇場がその実験の第一歩になります。独り言劇場はとても小さな日課ですが、それがどこに自分を連れていってくれるかは分かりません。短期的、中期的、長期的にこの日課を眺めながら、分からなさとともに、一体、良いこと、悪いこととは何なのだろうか、と考えてみるのも楽しい行為です。
自分で自分を励まして、良い空気を身にまとう
日々、独り言劇場を開いていきますが、ここでは空気感や雰囲気という実体はよく分からないのに確かに感じるものを見てみます。人は、誰でも何かしらの空気感や雰囲気を有しています。それは、部屋の換気が良い、悪いとすぐに分かるように、瞬時に感じられます。そして、換気が悪い部屋を好まないように、否定的でネガティブな雰囲気の人を避けてしまいます。直感に従って感覚的に動くかのように、良くない空気感をまとっている人から距離を取ろうとしてしまいます。
実際、否定的でネガティブな発言や行動を繰り返す人は、その場の空気感や雰囲気をどんよりと湿って重たいものにしてしまいます。それとは逆に楽しい良い空気感、雰囲気をまとっている人がいます。その人は面白く楽しく笑える場を与えてくれます。心地良い流れを感じさせてくれます。良い空気がその人の周りには絶えず流れています。閉じていなくて開かれている感じがします。
この違いは一体何なのでしょうか。空気感や雰囲気というのは、何も人だけでなくて動物も有しているように思います。身近な動物である犬や猫を観察していると、やはりそれぞれ固有の空気感や雰囲気を持っています。性格であると言われてしまうのかもしれませんが、どんよりとした重たい感じではなくて、さらっと清々しい空気感を身にまとっているほうが、損得だけで考えても得だろうと思います。一緒にいると、どっと疲れて嫌な気分になる人のところに誰も好き好んで近づこうとはしません。その人の周りでは何も起こりそうにありません。でも、何か楽しそうで面白そうな人のところには、何かが起こる予感が漂っています。良いことか悪いことかは分かりませんが、何かが起こるのではないかという期待や心の高鳴りを感じてしまいます。ドキドキ、ワクワクしてしまいます。その人が持っている開かれた心地良い空気の流れに乗って、自分も楽しく面白くなってきます。
となると、良い空気感や雰囲気で自分自身を包んだほうが良いように思います。少なくとも否定的で暗い雰囲気よりは、楽しくて面白い流れを感じられます。一体、誰がそんな陽気で愉快な空気感をまとっているのかと考えてみると、一人で楽しそうに遊んでいる幼児の姿がここでも思い浮かんできます。楽し気に一人遊びをしている幼児の雰囲気を少しでも獲得できれば、自分自身も良い空気をまとえるのではないかと思います。
その人が有している雰囲気や空気感を変えることは難しいのかもしれませんが、自分もかつては子どもであり、一人で楽しく面白く遊んでいたことがあります。かつては、自分も開かれた心地良い空気感を有していたはずです。完全にそれを取り戻すことはできないかもしれませんが、近づくことはできます。
独り言劇場を開くことがその練習になります。独り言内対話では、自分で自分を笑わせて、面白く楽しく笑っているというベース作りを目指していますが、それは良き空気で自分自身を包むことでもあります。独り言劇場を日課として続けていくことが、そのまま自分自身の雰囲気や空気感を面白く楽しいものにすることに繋がっています。良き空気を自分の周りに流す鍛錬になっています。
だから、独り言劇場の動画をチェックしたり、公演ノートを書いたりするときに、自分自身のことを否定しないようにします。否定して悩んで落ち込ませない練習をします。自分で自分を突き落としてネガティブでどんよりと暗くて重い雰囲気や空気感を自分自身にまとわせるのではなくて、自分で自分を応援し後押しして、空気の流れを変えてみます。自分で自分を励まします。何か面白いことが起こるのではないかという一人遊びをしている幼児のような空気感を目指します。
ひょっとして自分には何も起こらない、何もないと感じてしまうのは、身を包んでいる空気が悪いだけかもしれません。換気をすれば良き空気が流れ込んできて、それに乗ってしまえば面白く楽しい日常が待ち受けているかもしれません。換気は一度すればそれで終わりではないですから、換気の日課として独り言劇場を続けていくことが大事になってきます。
しかし、独り言内対話という誰からも評価されることもないたった一人だけの作業を毎日、続けていると気が滅入ってくるかもしれません。どんなに自分で自分を励まし支え続けても、その行為でお金を得られるわけでも人から称賛されるわけでもありません。そんなことを継続していけるのかという問題が立ちはだかります。
確かにそうかもしれませんが、お金や人からの評価をモチベーションにすべきではありません。逆にそうしてしまったほうが、継続していくのが難しくなります。お金や評価が得られないと、すぐにやめてしまうからです。日課として続けていくための見本であり、目標であるのは、楽しそうに一人で遊んでいる幼児です。あのように一人で楽しく面白く笑える状態を得たいのです。
お金や人からの賞賛がなくても楽しく面白く笑える日常を獲得できれば、それで良いと思います。日常をそのように送られるならば、良い空気が流れ込んできて、何かが起こりそうな予感を感じさせる人物にもなれるかもしれません。そのためにも、今の自分が持っている空気感や雰囲気を掴んでみます。どんな空気で自分を自分で包んでいるでしょうか。また、どこからそんな雰囲気を得たのでしょうか。
独り言劇場の動画を見る際に自分がまとっている空気感も確認してみます。こんな感じがする人なのかと自分のことを改めて認識して、良い空気が流れ込めるように隙間を開けてみます。開かれた良い空気が流れ出したら、それだけで自分の雰囲気が変わってしまいます。その辺りの変化も独り言内対話を日課として行ないながら感じてみます。
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