3-1. 独り言劇場へ
独り言上級者に聞く
独り言内対話における登場キャラクターも作り出して、一人で部屋の中で独り言劇場を開くだけになりましたが、その前に今一度、自分の独り言スキルを考えてみます。独り言を普段から発していますが、それはスキルとして身についているでしょうか。上手に活用できているでしょうか。独り言も一つの技、テクニックとして自分のものにしているでしょうか。
壮大な独り言劇場を繰り広げていくためには、その元となる独り言をスキルとして磨いていく必要があります。技として訓練を重ねることで独り言劇場もより生き生きとしてきます。独り言も一つのテクニックと考えると、すでにその技術を体得している上級者がいるはずです。先ずは、そのどこかにいるはずの自分を上回る独り言使いを探してみます。そして、見つかれば教えを請い、自分の独り言テクニックをレベルアップしていきます。
しかし、独り言は基本的に一人で密かにつぶやくものですから、外からはどのように他の人たちが独り言に接しているのか、どのような技を使っているのか、というのは見えにくいものです。ですから、常日頃から周りを観察して自分より優れた独り言使いと思われる人物に思い切ってどういうふうに独り言に接しているのか訊ねてみることになります。そうすることで自分では考えも思いもしなかった独り言テクニックを伝授してもらえるかもしれません。
どうしても自分と同じように他の人も独り言に接しているのだろうと想像してしまいがちですが、実際は大きく違う可能性があります。また、隠されているからこそ、どういうふうに人が独り言と接しているのか知りたくもあります。一体、他の人はどんな独り言を日々、つぶやいて、どんなテクニックを持ちあわせているのでしょうか。それを探るのは、それ自体で興味深いことだと思います。独り言収集家になってみるというのも面白いかもしれません。
ただ、どうしても人に独り言テクニックを訊ねるのは気が引けるかもしれませんし、そんなことを聞ける相手が周りにいないということもあると思います。そうなると、人目も気にせずオープンに独り言を盛大につぶやいている人を見つけ出して観察するのが良さそうです。そういう人物はいないかと探してみると、一人遊びをしている幼児がまさにその存在ではないかと思えます。一人で積み木やおままごとをしている幼児は、何やら一人でつぶやきながら楽しそうに遊んでいます。あの姿で独り言劇場を繰り広げることができれば良いのではないかと思えてきます。
幼児は、確かに独り言に関する何かの技やテクニックを意識しているわけではないと思いますが、そんなものを越えたところで独り言を大いに活用しながら遊んでいるのではないかと思えます。とにかく、一人で何やらつぶやきながら楽しそうに遊ぶ幼児の姿には独り言劇の劇場支配人としても学ぶべきところが多くあるはずです。
何かヒントを得るためにも一人で遊ぶ幼児を観察してみます。幼児の独り言と振る舞いを5W1Hと五感という観点から調べてみます。何を、誰に、どのように幼児は一人で話しているのでしょうか。何かそこにはストーリーらしきものが展開されているのでしょうか。また、どんな匂いや色や音を感じているのでしょうか。もしかしたら独り言劇場の完成形が幼児の一人遊びにあるかもしれませんので、しっかりと確認していきます。
そのように観察しながら、一つのこと、つまり自分も幼いころはこのように一人で何かつぶやきながら楽しく遊んでいたのだろうと自分の幼少期を思い返してしまうはずです。幼児は独り言の上級者ですが、それは、幼少期の自分もかなりの独り言の使い手だったということです。上手く独り言を使いこなして楽しく一人で遊んでいたのです。それが段々と出来なくなって、独り言を良くないものとしてネガティブなやり方でしか利用しなくなったのです。昔はそうではありませんでした。もっと楽しく面白く独り言を使っていたのです。その証拠のように幼児は今も楽しそうに一人で何やらつぶやきながら遊んでいます。
前はできていたわけですから、今もできるはずです。その能力は眠っているだけで死んでしまったわけではありません。どこかに飛んで消えてしまったわけではありません。底深くに沈んでしまっているだけです。掬い上げようと思えば、できないことはありません。幼児の一人遊びを真似てみれば良いだけです。かつての自分もあんなふうに楽しそうに一人で何かつぶやきながら遊んでいたはずなのです。昔の自分に戻りさえすれば良いのです。独り言劇場を開くことは、楽しい遊びなのです。もし楽しい遊びとならないのであれば、それは子どものころの自分と今の自分とを峻別しすぎているからではないでしょうか。幼少期の自分と大人になった自分との繋がりを全く無視してしまっているのではないでしょうか。もしくは子どものころの良くない記憶ばかりを思い出して、自分の幼年期を否定的に見てしまっているのではないでしょうか。
一人で楽し気に遊ぶ幼児を見ていると、自分もあんなふうに一人で楽しく時を過ごしていたはずだと思い出させてくれます。子どもの時の自分と今の大人の自分との繋がりを感じさせてくれます。何を手放したから、もうあんなふうに遊べなくなったのかと考え込んでしまいます。あの時に完全に戻ることはできませんが、独り言劇場を開くことであの感じを少しでも取り戻せたら、少しは一人で楽しく時を過ごせるようになるかもしれません。楽しい遊びとして独り言劇場を続けていくためにも、一人で楽しそうに遊ぶ幼児の姿は大いに参考になります。なぜ一人で遊びながら、あんなに笑みを浮かべられるのでしょうか。あの笑顔を少し取り戻せたら、日々の生活も少しは楽しいものになるのではないかと思っています。
イマジナリーフレンドを作ってみる
幼児がどうしてあんなに楽しそうに一人で遊べるのだろうかと考えてみると、もしかしたらイマジナリーフレンドというものが関係しているのではないかと思えてきました。実在しない空想上の友だちを作り出して、あるいは自然に現われ出てきて、一緒に遊んでいるから一人でも楽しいのでしょうか。傍から見れば、一人で遊んでいるように見えますが、実際には幼児は一人ではなくて誰か、または何かと一緒に楽しく時を過ごしているのでしょうか。
イマジナリーな存在と戯れることは、充足した感覚を与えてくれるのかもしれません。また、仮にはっきりと意識されたイマジナリーフレンドがいないとしても、幼児は曖昧模糊なイマジナリーな存在と戯れることで一人で遊ぶことを楽しい行為にしているのではないかとも思えてきます。そうなると、幼児が一人で何かつぶやいているのは、イマジナリーな存在に話しかけているのではないかと感じてきます。一人で自分に対して独り言を発しているようには見えませんので、何かに向けて声を発しているのではないかと思います。
もしイマジナリーな存在を友にすることで、一人で楽しく時を過ごせるのであれば、大人になった今からでも試してみる価値はあるのではないかと考えています。イマジナリーな存在を現実逃避としてではなくて、日々の生活を充足させるものとして捉えてみます。辛くて退屈で苦痛でしかない現実もイマジナリーフレンドがいることで違ったように見えるかもしれません。しかし、イマジナリーフレンドというものは強引に作り出すものでもないだろうと思います。もっと自然に勝手に向こうから現われ出てくるもののはずです。
そうなると、イマジナリーフレンドの前段階ではないですが、独り言劇場の登場キャラクターたちと先ずは戯れてみれば良いのではないかと思います。独り言内対話の対象は、人に限定していませんので、動植物、自然、物、宇宙、超越、無といったものとも戯れてみます。もともとイマジナリーなものですから、何でもあり、という状態にしておいたほうが流れを堰き止めてしまうことも少なくなるはずです。
独り言劇場の登場キャラとしばらく戯れて慣れてきたら、イマジナリーフレンドとはどういうものであるかを感じようとしているわけですから、今度は友として接してみます。友だち、もっと言えば親友なのですから、何でも話してみます。悩みを打ち明けて相談もしてみます。そこに絆のような関係が生じるか見てみます。でも、その時に深刻にはならずにあの一人遊びをしている幼児のように楽しく面白い遊びをしている感覚を常に頭に入れておきます。喜びに満ちた戯れを目指してみます。
イマジナリーな存在と接するということで、しかも大人になってから試みるということで、気が引けるかもしれません。何を今さらイマジナリーフレンドなどという子どもじみたものを考えているのだと、馬鹿らしく思えてくるかもしれません。確かにそうなのかもしれませんが、あの一人で楽しく遊んでいる子どもの姿は忘れがたいものがあります。あんなに一人で面白おかしく時を過ごしているのです。あのようにはなれないのかもしれませんが、少しぐらいは近づけると思っています。しかも、少しだけでも近づければ、それだけでも多くのものを得られるはずです。もし今、日々の生活がつまらないと感じているのであれば、イマジナリーフレンドを作ろうとすることがもしかしたら助けになる可能性があります。何でもどんなことでも話せる相手というものが、たとえイマジナリーな存在だとしてもいることの意味は大きいと思います。
すでに独り言劇場の登場キャラクターは作り上げてきたのですから、さらに肉付けしてイマジナリーフレンドのような存在にしてみます。また、もし周りにイマジナリーフレンドをかつて持っていた人がいれば、どんな感じであったのか聞いてみます。イマジナリーフレンドと一緒に戯れる時空間とはどんなものであるのか教えてもらいます。そして、いつから現われなくなったのか、イマジナリーフレンドをいつ手放したのかも興味深いことですから訊ねてみます。イマジナリーフレンドとは何なのかと考えるだけでも不思議な感覚になってきます。イマジナリーフレンドを持つ人は、周りの人が見えなくてもその人にはその存在が見えているわけで、どんな時でも常にイマジナリーな存在が見守ってくれている感じがしているのでしょうか。少し想像してみるだけでも興味が湧いてきます。
幼児でもなくて、何もない状態からイマジナリーフレンドを作ってみようとしても難しいのかもしれませんが、今まで様々な独り言内対話のバリエーションを考えてきましたから、ひょっとしたらそれに近いものを感じることができるのではないかと思っています。ダメもとでも試してみることで日々の日常が充足へ向けて進み出し、さらに独り言劇場の登場キャラクターたちがますます身近に感じられる可能性もあります。たとえイマジナリーな存在を得ることができなかったとしても、試した経験は独り言内対話に活きてきます。
それでも、一度、イマジナリーな存在を想像して上手くいかなくて諦めてしまうのではなくて、自分が考えうる方法を色々と何度も試してみることが重要になってきます。様々なイマジナリーフレンドの作り方を自分で考え出すのもそれ自体が楽しい行為になると思います。
では、次はイマジナリーな存在を作り出そうとする想像力と経験も利用しながら、独り言劇場で繰り広げられる物語を考えてみます。今まで作り出してきた主人公、悪役、脇役など様々な登場キャラクターを自由に動かしてストーリーを生み出してみます。
独り言劇場の物語作り
独り言劇場をいきなり何の構成もなく部屋の中で一人で即興劇のように行なっても面白いと思いますが、ぐちゃぐちゃになってしまって何をやっているのか分からなくなって途中でやる気がなくなってしまう可能性があります。また、せっかく作り出したキャラクターも登場させることができなくて、以前と同じようにただ自分で自分を落ち込ませて沈ませるだけの単なる独り言になってしまうかもしれません。
そのようなリスクを回避するためにも独り言劇場の物語の筋を予め作ってみます。それでも、即興的なところ、偶発的な部分をすべて削ると、それはそれで面白味がなくなってしまいますので、多少はそういう個所を残しながらストーリー作りに取り組んでみます。独り言劇場を一回、開いてそれで終りということではありませんので、長く楽しめるように色々と工夫していきます。
先ずは、きっちりと筋がある一つの物語を作ってみます。全く架空のストーリーをゼロから考えるのは難しいですし、大変な作業でもありますし、それを構想するだけで多くの労力を使ってしまって目的の独り言内対話にまで辿り着けないかもしれません。ですから、自分の体験をもとにした物語を先ずは作ってみます。自分の人生ですから、当たり前ですが実感があり、ストーリー化しても全くの絵空事ではありません。また、主人公を自分自身にして、自分の視点から物語を進めていきます。
記憶に残っている幼少期のある出来事を物語化しても良いだろうし、学校や職場を舞台にしたストーリーでも、家族の物語でも良いだろうと思います。また、自分の引きこもり経験を物語にしてみるのも手だと思います。もし自分の引きこもり体験をストーリー化するのならば、主人公は自分、悪役を自分を引きこもりに追い込んだと自分で信じる人物、脇役をその周りで手助けをしてくれなかった共犯者のように自分が思っている人々、というふうに作り上げていけば良いと思います。そして、その人物たちの間で起こった実際の出来事をベースにストーリーの筋を組み立ててみます。シンプルに簡単に一つの出来事を選んでその中での登場キャラクターたちの発言や振る舞いを追っていきます。誰に見せるわけでもなく部屋で一人でゆっくりと独り言劇場を開くわけですから、周りの目などというものを気にする必要はありません。実際、周囲には誰もいないわけですから、独り言内対話では遠慮や配慮は要りません。じっくりと一人で時間をかけて独り言劇場を作り上げていきます。
それでも、たとえ人に見せるものでなくても自分の引きこもり体験をストーリー化するのに抵抗を感じるようでしたら、動物園や水族館に行った幼少期のエピソードのようなものを物語化しても良いと思います。動物園を舞台に繰り広げられる子どもの自分と家族の出来事を取り上げてみるのも面白いはずです。また、エピソードが思い浮かばないようなら、過去の写真を見ながら物語を発生させてみるのも手です。実際に動物園に行った家族写真が残っているのなら、その写真を見ながらストーリーが生まれ出てくるのを待ってみます。じっくりとじっと一枚の写真を見続けていれば、何かを感じて勝手に自分で物語化してしまうはずです。
ですから、全く何もストーリー化できるようなエピソードがないという場合も、昔の写真や文集などを取り出して、見たり読んだりすれば何かお話しのようなものが浮かび上がってくると思います。それを独り言劇場の演目にしてしまいます。
ここまでは自分を主人公とした物語化を見てきましたが、今度は変化をつけるためにエピソード内の別の登場キャラクターから同一の物語を語らせてみます。視座を変えることで全く同じ出来事がどう変わるのかを見てみます。動物園に行った子どものころのエピソードでも、幼い自分の目線と親の目線では当然ですが同じ出来事が違って見えます。先ずは幼い自分の視線に降りていって、その後、今度は親の視線に立ってみます。ストーリーを量産しなくても視点を変えるだけで様々なバージョンを楽しめると思います。
その次は、人ではなくて、そこにいる動物の視点から物語を見つめてみても良いと思います。ニホンザルの視点、サイの視点、ゾウの視点などとたくさんの視線を導入することができます。そして、さらに動物園にいるすべての動物の総合的な視線というものも作り出してみます。そうなると、幼い自分と家族が行った動物園のたわいないエピソードが、とんでもない方向に進んでいきそうです。それだけで楽しくなってきます。
今度はそこに、今まで作り上げてきた人ではない登場キャラクター、自然物、人工物、宇宙、超越といった視点を導入して動物園のエピソードを見てみます。もうそうなってくると、このエピソードがどこに進むのか本当に分からなくなってきます。一番初めの自分自身を主人公にしたものとは、かなりかけ離れたものになってくるかもしれません。それはそれで独り言劇場を盛り上げてくれることになりますので、気にせずにどんどんとんでもない方向に進んでいってみます。
だから、たくさんのエピソードを無理矢理、捻り出す必要もないと考えています。一つの出来事であっても様々な視点からそれを見るだけで、複合的な物語化が可能なわけですから、ストーリー作りにそれほどこだわり過ぎなくても良いように思います。一つの物語の筋を決めて、それを複眼的に楽しむことを目指してみます。
一枚の写真をじっと長く眺めているだけでも、そこに何かを勝手に読み取ってしまって物語化してしまいます。日々の生活でも、ある事件をニュースで見たり読んだりしただけ、すぐに勝手にそこに物語を発生させてしまうのですから、それほど小難しく考える必要はないと思います。どうしたって、何かを見たり、触れたりしただけで、即座に勝手にほぼ無意識的にあるストーリーを生み出してしまうのですから、心配する必要はない、というよりも物語の作り過ぎのほうを気にすべきだと思っています。
機器(携帯電話、監視カメラ)の導入
実際に独り言劇場を開くばかりという状態になってきましたが、独り言内対話を一人で部屋の中で繰り広げてそれで終わりというのではもったいないです。せっかく独り言劇場をやっていくのですから、続けていけるようにするためにも変化が重要になってくると思います。独り言内対話を毎回、確認して、次に繋げていくことで、前回と今回の違いというものにも気づけるようになってきます。
それに適した機器が手元にあります。携帯電話です。携帯一つあれば、ほぼ独り言劇場で欲しい機能が揃ってしまいます。先ず、自分の独り言を録音できます。いつ、どこにいても手元に携帯電話があれば、さっと自分の独り言を録音できます。自分の声を簡単に聞くことができます。どんな声質や口調で自分が独り言をつぶやいているのか確認できます。また、どんなことをつぶやいているのかという内容もチェックできます。保存しておけば、アーカイブスのように何年も前の自分の声に出会えます。携帯電話で自分の声を採取していくだけでも面白いです。自分の声や独り言の変遷を一人でこんなに簡単に確認できるのは凄いことだと思います。
さらに携帯で録画することもできます。独り言をつぶやき続ける自分の姿を撮影して見ることができます。独り言劇場を開く者としてこれは素晴らしいことだと思います。自分一人だけしかいない部屋で独り言劇場を繰り広げていきますが、その様子を動画として残せます。自分の声だけでなくて、話し方、表情、ジェスチャー、目線、癖などをチェックできます。
普段、自分がどういうふうに振舞っているのか、どんなコミュニケーションを行なっているのかを知るのは難しいですが、映像としてそれを見ることができます。そこに映っている自分と頭の中でイメージする自己像は違っているはずですが、その差を視覚的に見るのは楽しい行為です。思いもよらない自分がそこに映っているかもしれません。こんなふうに自分は話していたのか、こんな表情やジェスチャーをしていたのか、と驚きとともに新たな自己像を発見できるかもしれません。こんな大きな気づきを携帯電話一つが与えてくれます。積極的に利用しない手はないと思います。
また、当然一つのストーリーを色々な視点からつぶやいている様子も動画に残せます。それらを見ながら、視点ごとの違いも直接、目で見て確認できます。動物園の幾つもの視点からの物語を独り言劇場として開くだけでなく、その動画を自分でチェックしてみます。そこに何が映っているのだろうかと想像するだけでも、わくわくしてきます。
このように携帯電話を大いに活用しながら独り言劇場の変化や違いを実感できるようにしていきますが、携帯以外のものも利用できるだろうと思います。絵コンテのようなものを描いてみるのも良いと思います。自分の部屋という舞台を絵で写生のように描くとして、部屋にあるものを細かく観察して描いていくことになってきます。舞台である自分の部屋をより良く理解するには、絵を描けばそこに何があって、どんな色合いであるか、より感じられると思います。絵を描くことで、自分の部屋の中にこんな物があったのかと気づくこともあるし、こんなにもある一色が支配的だったのかと部屋の色彩にも敏感になってくるはずです。対象をしっかりと観察して絵を描いていきますから、見慣れたものであっても新たな発見があります。
さらに、舞台だけでなくて、自画像も丁寧に描いてみます。自分の姿をちゃんとイメージするのは思っている以上に難しいのではないかと考えています。自分はどんな顔で、どんな体を有しているのかを掴むためには自分が映っている動画を見るのも良いですが、自分で自分を描いてみるのも手だと思います。試しに頭の中にある自己イメージだけを頼りに自画像を描いてみます。そうすると、自分がどんな目や鼻や口や耳を持っているのか想像だけでは思い出せないかもしれません。もっとも身近な人である自分自身の姿でさえ曖昧な状態です。はっきりと自分の顔を認識できていないのです。どんなに毎日、鏡で自分の顔を眺めていても、そうです。そのはっきりとしない状況から少しだけでも抜け出すために自画像を自分の姿を鏡に写しながらでも描いてみます。自分の姿をじっくりと観察してみます。でも、観察するだけでは足りないだろうから、絵にしてみます。ここでも意外な発見があるはずです。
自分で自分の姿をよく掴めていないということを考えていると、部屋の中に監視カメラを導入してみるのもありではないかと思えてきます。独り言劇場を開いている自分の姿を携帯電話で撮影するにせよ、自画像を描くにしろ、そこにいる自分はかなり意識された自分です。そのような意識的な自分ではないもっと何も気にしていない無意識的な自分の姿も見たくなってきます。当然、設置した監視カメラを意識してしまう状況が続くかもしれませんが、長くやっていればどこかの段階でカメラの存在を忘れてしまうと思います。そのカメラを意識しなくなった自分の姿を見てみます。そこに映る自分とは一体どんな存在でしょうか。どんな姿をして、どんな動きをしているでしょうか。これもまた興味深い実験です。
独り言劇場を開いてそれを動画に収めるのは単に独り言内対話の変化や違いに気づくためだけでなくて、自分で自分の姿を見る練習にもなってきます。謎だらけで不可解な自分自身を外から掴んでいく機会をも与えてくれます。内面は全く理解不能というほど混沌としていますが、外見は目に見えますし、携帯電話で簡単に撮れますし、自分とは何かと悩む前に自分で自分の姿を見る練習をするのが良いのではないかと思います。自分の姿や振る舞いが今よりもしっかりと分かるようになれば、自分とは何かという壮大な問いにも今までとは違うアプローチができるのではないかと考えています。
ユーモア、笑いを入れてみる
自分で自分を見る練習をしながら独り言内対話を続けていきますが、その時に、笑いやユーモアを入れてみます。一人遊びをしている幼児が見本ですから、泣くのではなくて笑って楽しく継続していきます。泣くというと、悲しみや寂しさの感情と容易に結び付けられますが、独り言劇場を開いて嘆き悲しんでも得るものはありません。
自分の引きこもり体験をもとにしてストーリーを作り上げるとしても笑いやユーモアの要素は忘れないようにします。悲惨な体験であっても笑いを意識してみます。人の感情の中でも泣くではなくて笑うに焦点を当ててみます。どんな時にどんなふうに人は笑うのでしょうか。これはなかなか難しい問いだと感じます。人が泣く時というのは何となく分かるように思えますが、人が笑う時というのはもっと複雑なように思います。人を泣かせるよりも笑わせるほうがもっとハードルが高いはずです。
先ずは、難易度が高いと思われる人を笑わせるではなくて、自分で自分を笑わせてみることから始めてみます。自分はどんなことでどんな時に笑うのか調べてみます。今の日常で笑うことがあるでしょうか。遊びもそうですが、笑うというのも手放してしまっているかもしれません。そうであっても、かつて笑った経験や記憶はありますから、思い出してみます。自分が面白いと感じて笑みがこぼれた瞬間を思い浮かべてみます。笑う自分を想起できたら、どうして自分は笑っていたのか自分なりに分析してみます。何が面白くて自分は笑っていたのだろうと考えてみます。自分の笑いのツボをそうやって取り出せたら、それらを使って今度は自分で自分を笑わせてみます。自分一人で自分を相手に笑いを取りにいきます。もし自分で自分を笑わせる技術を体得できれば、人に笑わせてもらう必要もなくなります。
面白いから笑うわけで、そして、笑うと楽しい気持ちになってきます。その面白く楽しく笑っているというのを独り言劇場のベースにしてしまいます。基礎、土台にします。基の部分がそんなに面白いことになっているわけですから、日々、独り言内対話を継続していけます。ですから、朝、起きてまず初めに自分で自分を笑わせるということを日課にしてみます。自分から笑みがこぼれるように心掛けます。機嫌良く一日を始めてみます。機嫌良く楽しく面白く笑っているというのがベースになるまで、自分で自分を笑わせる技を日課として磨いてみます。
メディアなどを通じて人に笑わせてもらうと面白いことは面白いでしょうが、持続性という点では短いように感じます。さっとその笑いを消費してしまって、面白さ、楽しさはどこかに消えていってしまいかねません。今は、ベースとして、基礎として、面白く楽しく笑っている状態を獲得したいと思っていますので、自分で自分を笑わせることを重視してみます。いつでもどこでも自分で自分を笑わせられるのであれば、人に笑わせてもらうことがなくても、機嫌良く居られます。機嫌良くいれば、自然と独り言劇場にも笑いやユーモアの要素が入ってきます。だから、笑いやユーモアを入れないといけないと考えるのではなくて、笑っている楽しい自分というものを先ず作り出せさえすれば、後は問題ありません。
日々の日常の中で自分の笑いを取り戻します。幼少期にあんなに笑えていたのに今は笑えなくなってしまっているのなら本当に残念なことです。自分の笑みを、笑いを奪還しないといけません。自分の笑いの研究というものをしなくてはいけません。でも、自分で自分を笑わせるのもそんなに簡単ではないはずです。自分で自分を笑わすという日課を試してみれば分かりますが、何をすれば、何を考えれば、自分が笑うのか自分でもよく理解できなくて苦労するだろうと思います。ひょっとすると人を笑わせるよりも大変かもしれません。
ですから、先ず自分で自分を笑わせる第一歩として、笑顔を意図的に作ってみるのが良いのではないかと思います。少し強引にでも笑みを浮かべてみます。笑い顔を作ってみます。その笑顔の自分に釣られて、面白く楽しく笑っている状態に自分自身を持っていってみます。自分の笑顔を鏡などで観察してみます。そこに写っているのは不自然な笑みかもしれませんが、今はそんなことは気にしないでおきます。笑うと自分はおおよそこのような顔になるということを覚えておきます。それを自分で自分を笑わす日課の初期段階では行なっていきます。笑っている自分のイメージをはっきりと掴めるようにします。いつでもどこでも笑顔の自分をイメージとしてすぐに引き出せるようにします。
そして、自分で自分を笑わす時に先ず何よりもそのイメージを想起させてみます。頭の中、さらに実際の自分の顔を笑みで充たします。すでに笑ってしまっています。何も自分を笑わせる面白いことを思いつかなくても、すでに自分は笑顔です。笑顔でいれば、笑っていれば、自然と何となく楽しく面白い気持ちになってくるから不思議です。だから、楽しく面白く笑っている状態というベースを作るには、先ずは笑顔を作る練習から始めれば良いのではないかと思います。自分で自分を笑わす日課は、しっかりと笑みを作ることさえできれば、もうできたようなものです。自分の笑顔をちゃんと頭の中に焼きつけて、いつでも引き出せるようになれば、後は自動的に事が展開してくれるのを待つだけです。
自分の笑みを頭に叩き込むために、鏡の前で笑顔を作るだけでなくて、携帯電話を利用して写真や動画を撮ったり、笑顔の自分の絵を丁寧に描いてみたりするのも手だと思います。それらのことも自分で自分を笑わす日課に加えて日々やり続ければ、楽しく面白く笑っているという土台を獲得できるのではないかと思っています。それでも、どうしても不自然でぎこちなく笑っている自分しかイメージできないようでしたら、子どものころの笑っている自分の写真を持ち出してみます。一枚ぐらいは自然に笑っていると思える幼少期の自分の写真があるはずです。それをじっくりと観察して、必要なら絵も描いてみて、その笑みを頭の中にインプットします。何十年も前の自分かもしれませんが、今でも笑えばあのような笑みになるのだとイメージを掴みます。そして、それを引き出す練習を自分で自分を笑わす日課に加えてみます。
その他にも様々な方法を試しながら、自分で自分を笑わす日課を続けていきます。笑顔の自己像を掴めるようになれば、そのままそのイメージを持ったまま独り言劇場へ乗り出してみます。独り言内対話を笑みやユーモアとともに進めてみます。
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