スキップしてメイン コンテンツに移動

引きこもり当事者カラッと研究術 8

8未来を書く 

未来を書く、ということで自己啓発書などにもそのようなことがよく書かれていますが、それらと少し異なるのは未来像をあくまでも現在の延長線上に書くことを目指している点です。今の自分と完全に切り離された素晴らしく華々しい未来を思い描くのではなくて、人と接することや賃金労働に従事することなどといった現在、苦手で不得意なことは未来像でもそのまま変わりなく得意ではなくて、その分、今の強みである一人で居られる、心が共振するなどという点がさらに広がっている未来を形作っていきます。だから、性格がガラッと変わって、積極的に誰とでも話すようになり、友だちもたくさんできて、さらに社会的地位も得ているというような未来像は端から考えません。今が全く関係しないかのような、糸が途中でプツンと切れて急に別の現実が出現したかのような未来ではありません。

その未来を頭の中で色々と思い描くだけではなくて、書き記していきます。頭に浮かんだ考えやアイディアは、そのまま何もしないままだと大抵、忘れてしまいます。そして、後からどんなに素晴らしい思いつきだったと必死に思い出そうと頭をいくら捻ってみたところで取り戻すことができません。その未来像はどこかに消えてなくなってもう掴むことができません。

そのように頭の中に束の間、浮かんでは消えていく未来のおぼろげなイメージをできる限り捉えるには、書き記していくことが良いように思います。書き残しておけば、たとえ完全に頭の中から消えてなくなってしまった後でも、書いたものを読み返してみることで思い出すことができます。また、事細かにそのイメージを書き記しておけば、忘れてしまって今は全く思い出すこともできないその時の感情や感覚や情景にも出会えるかもしれません。

頭の中だけで、例えば、前に書いたような一人で行なう高齢者向け何でも屋のアイデアを思い浮かべているだけだと、いずれは忘れてしまってなかったことになってしまいます。しかし、書き記しておけば、そこに現実として残ります。事実としてそこにあります。机上の空論でしかないかもしれませんが、頭の中から飛び出して、少なくとも机の上にまで現実として存在しています。それをさらにもっと押し出していって、文字の形をも飛び越えて、乗り越えて、あるべき未来として現前させることができれば良いのだろうと思います。

また、書き出しているうちに頭の中の考えや思いが徐々にまとまってくる感覚があると思います。それは、あるべき理想の現実としての未来が具体的な形を文字によって少しずつ与えられてきているのだと思います。まったく形も何もないドロドロとした混沌状態から、ある未来が顔を出してきているのです。それをしっかりとはっきりとしたものとして掴み取るためには、どんどんと書き記していき、くっきりとした鮮やかな輪郭を伴ってそれが現れ出てくるようにしないといけないのだろうと思います。言わば、理想の現実としての未来を得るための方途として、書くことを利用します。書くという行為からスタートして未来を目の前ではっきりと見てみようとします。どういう未来を自分の周りに作り上げるかを書く行為を通じて実践していくのです。

書くぐらい、なんとでも、どうとでも書ける、要は、実際にどう行動するか、どう振る舞うかが大事だ、というようなことを言われることもありますが、その書く行為よりも重要だとされる行動や振る舞いの指針は、言葉や文字によって作り上げられた現実によるところが大きいと思います。言葉や文字によってどういう現実を理想として自分の周りに築き上げるか、そこが行動を重視する場合でも大切になってくるのだろうと思います。

確かに言葉や文字は、何も書くことだけには利用されてはいませんが、口下手で人と接するのが苦手で不得意である僕たちは、書く行為で未来を築いていくのが良いだろうと思います。また、他者が書いたものを読んで自分の未来を思い描くのも一つの参考や見本としては良いと思いますが、自分の理想の現実としての未来を得ようとしているのですから、やはり自分で文字を使って書き記していくしかないと考えています。自分の未来を他者に書いてもらったり、書かれたりするのではなくて、自分で書いて少しずつ具体的なものにしていくしか道はありません。そうでないと、自分の未来すらもまた他人のせいにしかねません。

現実というものを考えてみると、確固としたものであるようでいて、どうもあやふやでよく分からない思いになってきますが、理想の現実としての未来となると猶更です。そんな曖昧模糊な理想の現実である未来に、たとえ五里霧中であっても、何とか書く行為で対峙しようとしているのです。そう思うと、何だかとてつもなく大きなことをやっているようで奮い立ってきますが、書くことで自分にとって心地良い理想の現実としての未来を作り上げてみます。

また、未来を書く行為が不足しているから、部屋に何年、何十年と引きこもって再び立ち上がることができないという面があるのではないかと考えています。未来を書くことなく無計画で無防備なまま当たって砕けろの精神で体当たりしてしまって、滅多打ちに遭い、再起不能のようになってしまっているのではないかと思います。ノーガード戦法にも、作戦も計画も何もないのでなっておらず、文字通りノーガードで突っ込んでいって上手くいかずに、それで自分のことを全否定してしまっているのではないかと思います。

事前に計画や作戦や戦略を立てて未来を書いて自分なりに防御していないと、呆気なく倒されてしまっても当然かもしれません。しかも、全く何の戦略も事前に練っていないと、どこがどう良くなかったのか、どこの穴を突かれたのか、といった敗戦後に次に活かすための情報も得られなくなってしまいます。自分でもなぜボコボコに負けてしまったのか何も分からず、ただ体と心の痛みに引きずられてしまって次の戦いの場に赴くことさえできなくなってしまいます。

失敗しようが、上手くいかなかろうが、そんなことは本当にどうでも良いのです。人と接することやお金を得ることが苦手で得意でないという時点で、ほぼ負け戦は決まってしまっています。そんな結果なんて気にしなくて良いのです。そんなことではなくて、たとえ負けてもそこから何かを得て、屈することなくまた立ち向かえれば、それだけで十分です。それ以上、何も必要ありません。成功も名誉も大金も得られなくて構いません。何の問題もありません。ただ負けても立ち上がって、また未来を書いて再び戦いの場に向かえればそれで満足です。それを何度でもずっと繰り返せれば良いだけです。

そのためには、無防備に無計画に闇雲に向かっていくのではなくて、戦略や計略を練って未来を前もって書いておかないといけません。未来を書いて防御すれば、負けたとしても再起不能になるまで叩きのめされることもありません。また、未来を書いていると、どういうガードをして、どういう攻撃を仕掛けてみたが駄目だったというような具体的な次の未来を書く前提が得られます。だから、負けて引きこもってもう完全に立ち上がれないということはありません。今回書いた未来のどこが駄目だったか、どこで方向を間違ったか、などの敗戦分析ができますから、では次はこうしてみよう、こういうふうに未来を書いてみようという意欲も湧いてきます。そして、その新たに練った未来とともに再度、立ち向かっていけます。

ですから、手元にあるたくさんの時間を使って未来を書いてみます。書く行為でそれが得られるのですから試してみます。また、ここでは書く行為は未来を見るための道具でしかありません。だから、書くのが上手だとか下手だとかそういうことは一切気にせずに、あくまでも道具としてそれを利用しながら自分の未来を書いていきます。それでも、おそらく未来を書き続けていくうちに道具も少しずつ磨かれていくだろうとは思っています。

 それでは、まず未来を書く前段階として事細かに資料を集めていきます。情報は多ければ多いほど良いですが、もう日々の自分自身についての資料作りの作業で手元にかなり集まってきていると思います。資料作りで得た情報は、過去封じのためのカラッと研究小説にも利用しますが、ここでも使っていきます。ですから、日々の日常で悩みや不安に苛まれたら、すぐに資料作りに精を出していきます。

また、自分自身に関する資料作りで得た情報のみではなくて、毎日、とにかく何でも思いついたことや頭に浮かんだことを書き残していきます。どんなに今の自分にとっては意味がないような無駄な考えやアイデアであっても、とりあえずどんどん資料として書き記していきます。本当にどんなことでも構いません。例えば、家の掃除を今までとは違う行為のように感じられるにはどうしたら良いかとか、料理の盛り付けや皿を変えるだけで味も含めてどんな変化が生じるかとか、日常の作業にも目を向けて色々な案を書き残していきます。

その様々な考えや思いが入り乱れた膨大なメモのような情報を日々、読み返してみます。繰り返し読み込んでどんな未来が立ち上がってきているかと事細かく観察します。どんな未来を理想の現実として自分が求めているのかを探っていきます。頭の中で理想の未来をあれこれと考えるのではなくて、自分が書き溜めた情報の中にそれを見ようとします。少し離れたところから、残された歴史資料をもとにその当時の現実を思い描くように、自分が探し求めている未来像をその中に見出そうとします。そういう意味では、対象が過去ではなくて未来という違いはありますが、歴史研究のようでもあります。資料として手元にある自分が書き残したものを入念に調べて、城の当時の様子を再現するように未来を浮かび上がらせようとします。

何気なく書き残したことに理想の未来の重要な鍵が隠されているかもしれません。それを大量の資料の中から見つけ出すことで、一気に目の前に理想の現実としての未来像が広がってくる可能性もあります。カラッと研究小説では、資料を過去のために使いましたが、同じ資料を今度は未来のために利用します。全く同じものでも視点が変わるだけで全く異なったものに見えてくる感覚も味わいながら、未来を立ち上げていきます。

 そして、その作業を繰り返して書くべき未来像が立ち現れてきたとしても、あくまでもその理想の未来にたどり着くまでの過程を書き記していくのではなくて、もうすでにたどり着いた理想の現実としての未来そのものを書きます。その未来像を得るために、これから日々、どういった日常を送らないといけないかと考えるのではなくて、その未来がすでに手に入った理想の現実を書きます。言わば、過程ではなくて、結果を書きます。 

もしその未来を問われたら、曖昧なところが一切なく隅々まですべてはっきりとくっきりと見えた状態で、すぐに全く何の迷いもなく答えらるようにします。そのようになるまで理想の現実としての未来の解像度を高めていきます。言うならば、今、日常を送っている現実よりも未来の理想の現実のほうがよりリアルに感じられるようになることを目指します。そこまではっきりと未来を書いてしまいます。そして、自分で立ち上げたそのリアルな未来とともに以前よりは現実感がなくなった今の現実に立ち向かっていくということです。そういう状況になれるまで未来を必死に書いていきます。昔の城下町を細部にわたるまで忠実に再現するかのように自分の未来を見ようとします。

ですから、未来を書くというのは、何か将来にある目標や目的を達成したいというような部分的な願望の表出ではありません。全体的であり全人格的な未来を築き上げます。そのためには、自分の未来のすべて、あらゆることを書いていく必要があります。極端なことを言ってしまえば、今ある現実の中ではなくて、未来の理想の現実の中で今の日々の日常を送ります。未来の中の住民として今を生きます。今という時を過ごしていますが、もうそこの住民ではなくて理想の未来の中にいる人として行動します。ある事実や事象をどの位置や立場から見るかによって全く違って見えてくるように、今という現実を未来の目から見てそれに従って動きます。

しかし、それを今の現実を目の前にして頭の中で思い描くだけではどうしても今の現実に引きずられてしまいます。だから、書くという道具を使ってその未来を文字で作り上げてしまいます。今後、仮想空間の中で自分の理想の現実としての未来をもっと直接的にはっきりと目で見て触れて感じることができるようになると、もっと容易に未来を掴めるかもしれません。でも、いつその段階まで達するのか分かりませんし、何よりもお金もなく手元にある膨大な時間だけが唯一の頼みの綱なのですから文字をとにかくたくさん書き連ねて未来を築き上げていきます。

そうなると、一つの世界を自分で作るようなものですから、部屋に引きこもっていつまでも悩み苦しんでいる場合ではありません。そんなことに時間を使う余裕などありません。理想の現実としての未来の住民にならないといけないのです。大量に時間があるからと言って無駄遣いはできません。五感や記憶などあらゆることは今の現実に縛られています。その強固な現実を超える行為に挑むのです。壮大な実験です。

そのように新たな挑戦ではありますが、部屋や家全体を掃除し片付けて心地良い場にしていく空間作りが、ここで活きてきます。この空間作りは、自分が思い描く心地良い場というイメージを実際に現実のものとして作り出そうとしているとも言えます。イメージを現実にする行為ですから、様々な考えや思いを文字でまとめて未来を書く作業と似ていると思います。だから、部屋や家の掃除をしていることが、未来を書く行為の練習にもなっています。そこで日々、鍛えていますので、未来を書くこともできると考えています。

では、実際に未来を書いてみます。前にも書いたように部分的な未来ではなくて未来すべてを書くことを目指します。だから、すべてをしっかりとはっきりと見て書かないといけません。でも、それだとあまりに広大すぎてどこからどう手を付けたら良いのか分からなくなってしまいます。ですので、先ずは一日後、明日の未来を書いてみます。 

明日という未来です。未来は理想の現実です。明日という未来を書くということは、明日一日24時間の理想の現実を書くということです。だから、明日一日の理想的な24時間のスケジュールを今日、決めます。頭の中や資料の中に自分にとって望ましい一日の過ごし方があります。一日をこのように過ごしたいという理想があります。その理想的な一日24時間の過ごし方を明日のスケジュールとして今日、書いてしまいます。明日一日の予定をその理想に従ってすべて立ててしまいます。  

理想の未来の一日では何時に起きていますか。午前中は何をして過ごしていますか。昼食は何時に食べていますか。そして、午後はどんなことに時間を使っていますか。夕食は何時にどこで食べていますか。眠る前には何をしていますか。また、何時に寝ていますか。そのように未来の明日の予定を書いていきます。それが理想の明日一日の時間の過ごし方です。そのように一日24時間を使うことが、理想の現実としての未来の明日です。    

 一日後のことで手を加えられる範囲もそれほど広くありませんから、日常の時間の使い方だけに絞ってしまいます。理想の明日のスケジュール表を24時間分書いて完成させて、それを眺めてみます。そのように明日という未来を見て書いたのです。それを実際に現実のものとするには、そこに書かれた予定通りに明日一日24時間を使っていけば良いだけです。それで未来の理想の明日として書いたことを実際に手にしたことになります。 

明日という未来を書いて、確実に現実のものとしてそれを掴んでしまったことになります。未来をはっきりと見て書くことができたことになります。理想の未来の明日を本当に手にしてしまったことになります。書くことで夢が実現したのです。だから、この明日という身近な未来を先ずは書き続けて、未来を書くことに慣れていけば良いと思います。

そして、未来を書いて実際に手に入れる行為がどういうものであるか徐々に分かってきた後に、今度はその未来の明日の中にお金を得る賃金労働の時間を加えてみれば良いと思います。理想の未来の明日という型はできてきていますが、そこに生き延びていくのにどうしても必要なお金を得る時間を追加してみます。

先ず、理想の未来の明日の中に賃金労働に従事する時間を書き加えます。何時から何時までお金を得る作業をするという賃金労働に関する未来を先に書いてしまって、その後に実際にそれに合う仕事を探し始めます。そして、未来に書いていた労働に見合うものを実際に見つけてしまえば、それもまた理想の未来を書いて実際に手にしたことになります。この未来を先に書いて実際に手にする経験をどんどんと増やしていって、未来を書く感覚を磨いていきます。

それでも、未来に書いたものと実際の現実との間にズレが生じることがあると思います。例えば、未来に書いた労働時間帯に完璧にマッチする仕事がいくら探しても見つからないこともあるかもしれません。その場合、事前に書いた計画書である未来と現実との擦り合わせを行なう必要があります。もしかしたら、未来に書いた労働時間の条件に合う仕事をまだ十分に探し切れていないだけかもしれませんし、または、本当に書いた未来のほうに無理があるのかもしれません。そこを探っていきます。

現実でたとえ思っていたように上手くいかなかったとしても、その現実に対峙する前に手元に先に書いた未来という防御があります。何もない無計画で無防備な状態では現実に立ち向かっていません。自分で考えて書いた自分なりの未来が手元に見える形であります。先に書いた理想の未来の視点から実際の現実との調整を行うことができます。もし自分が書いた未来があまりにも無謀すぎて全く現実に合わないのならば、その部分を書き直せば良いだけです。しかも、書いた未来が手元にありますから、その未来のどこがどう無謀で現実に合っていないのかしっかりとチェックすることができます。上手くいかなくても書いた未来のどこが駄目だったのか具体的に確認でき、その部分を見直して次に活かすことができます。そうすれば、過剰に落ち込むこともなくなり、どんな負けにも屈することなく再び立ち向かっていけます。だから、何かアクションを起こす前に未来を先に書いておく必要があります。

ここまでは、明日という身近な未来、そこに賃金労働を加えた未来を見てきましたが、今度は一日後ではなくて二日後の明後日の未来を書くことを見てみます。二日後、48時間後の明後日と一日後、24時間後の明日の未来を書く違いはどこにあるでしょうか。どちらの場合もまず一日24時間の理想のスケジュールを書いていきますが、当たり前ですが、明後日のほうが未来を書いている今日から見れば、明日よりも離れています。明日よりも24時間分、先にあります。明後日の未来になると一日分の蓄積があいだにあります。明日に比べてさらに一日24時間が積み重なったうえでの一日になります。ということは、その24時間分が追加された一日を書かないといけません。

理想的な明日を経たうえでの明後日を書くことになります。明日、思い描いた一日を過ごせた前提で書きます。だから、明日の未来に比べると現実との齟齬も大きくなる可能性があります。明日が理想通りに過ごせたと仮定して書きますから、もし明日が予定通りでなかったら事前に書いた明後日にも狂いが生じてきても何の不思議もありません。今日という現実から離れていくほど、書いた未来と実際の現実にズレが生じるのは仕方がありません。だからこそ、そのズレを最小限に抑えるためにも初めのうちは理想的な明日を書き続けて、それを確実に現実のものにするように心掛けてみます。

どうしても明日ではないもっと先の未来を書くとなると、今よりもさらにもっと良いものを想像してしまいますし、そうでないなら何のために書くのかも分かりません。素晴らしい理想的な未来を書いて、そこには今よりも成長した自分の姿があるはずです。でも、この成長した自分のイメージを今の自分から途方もなく離れたものに想定すると、実際の現実とのズレが開いていくばかりだろうと思います。

要は、明後日であれば、一日分の蓄積がありますが、それで自分の何を、どこを成長させるのかを考えないといけません。ここを間違ってしまうと、全く現実離れした未来を書いてしまうことになってしまいます。明日の未来では単に理想的な一日24時間のスケジュールを書いていましたが、明後日以降の未来を書く場合は、積み重なっていく日々の時間が加わりますから、ここにさらに自分のどこの部分を伸ばしていくか、また、どこには目をつぶるか、ということも見ないといけなくなってきます。

その時に今の自分が苦手で不得意なことが未来では上手にできるようになっていて、それで活躍していると想像してしまうのは、未来の現実から大きく乖離してしまう可能性が高いと思います。不得手なことというのは、平均よりも劣ることです。一般的に人が何の問題もなく普通に行えることが、難しいということです。平均値よりも低い苦手なことを上達させるのは大変なことです。苦手意識がありますから、それに目を向けるだけでも辛い気持ちになってきます。それをレベルアップしようとするのは困難を伴う長い過酷な試練になってきます。

しかも、必死に努力して仮に平均レベルに達したとしても、それでは当然ですが活躍できません。平均以上に上手だからこそ、それを武器として使うことができます。それほどのレベルまで今、苦手なことを押し上げていくのは途方もないことです。たどり着けないかもしれません。また、そんなことに時間を浪費している間に、もともと平均レベルにいた人たちが次々とレベルアップしてそれで活動し始めてしまいます。マイナスをゼロにするのにもかなりの労力を要するのに、さらにそれをプラスにしようとするのはやめるべきです。そこではどうやっても敵いません。

だから、未来を書く時に、このマイナス部分が成長しているイメージは描きません。そんなことをしてしまうと、その時点で未来に狂いが生じてしまいます。人と接すること、お金を得ること、という今、苦手で不得意なことが未来では驚くほど上手になっていて、誰とでも臆せずに話せて、たくさんお金を稼いでいるなどという未来は書きません。そうではなくて、今のプラス面、一人で居られる、心が共振する、人とではないコミュニケーションチャンネルを持てる、といった面がさらに広がっている未来を書きます。ここの部分が日々、積み重なって伸びていく未来を書きます。

しかし、そうはいっても今、現在の長所や強みがさらに成長していくのにも時間がかかります。一日、トレーニングしたからといって、それで大きく伸びるわけでもありません。だから、広げてそれを強みとして活動したいものを絞ってしまいます。あまりたくさん伸ばしたいことが色々とあり過ぎると、力が分散してしまいます。日常に無理が生じない程度で選んでそれを強化する時間を一日のスケジュールの中に追加します。だから、明日と明後日の未来を書く場合の大きな違いは、今の自分が持っているプラス面を強化する時間を考慮するかどうかです。明後日の未来を書く時には、今の自分のどの長所を伸ばしていくか選んで、それを鍛える時間を一日の中に書き込んでいかないといけません。

さらに遠い未来、一か月後、三か月後、半年後などを書く場合は、その強みがどんどんと成長してそれを有効利用できている未来を書かないといけません。その未来をはっきりと見て書いてしまいます。そして、実際に一か月後の未来に現実として立った時に、そこに未来として書かれた通りに選択した自分のプラス面が成長しているか見てみます。確実に一か月前よりは伸びているかどうか確認してみます。一か月あれば、目に見える形で変化があると思います。その変化を見つめて、軌道修正したり、そのまま突き進むことにしたりして、三か月後、半年後の未来を書いていきます。これは何か未来と答え合わせをしているようで楽しく興味深い作業にもなると思います。先に書いた未来と実際の現実にどれぐらいの齟齬があるのか具体的に目に見る形でチェックできるので面白いと思います。そのためにもはっきりと未来を見て書き残しておかないと検証もできません。

さらにもっと遠くの一年後、五年後、十年後、二十年後という未来を書く時は、今の自分から大きな変化が生じています。一年後だと、当然ですが、一年、歳を取っています。体も頭も全く何も一年前と変わらないと感じていても、確実に一年、老いています。二十年後などになると、今よりも二十年も歳を重ねています。体の変化も激しいでしょうし、周りの人でもういなくなっている人もいるかもしれません。そういう不可避の衰えも見つめながら未来を書きます。

また、自分の置かれた状況も今とは変わってきているはずです。もう今と同じところに住んでいないかもしれませんし、長所を活かして別の土地で活躍できているかもしれません。何か偶発的なアクシデントが起こって、半ば強引に急に人生の道筋が変わってしまっているかもしれません。それでも、未来を見て書いてみます。遠い未来ほど未規定な部分も増えてきますから、さらに細かく自分の日常を構成する各要素も見て書いていきます。

ただ、家族、健康、労働、住居、コミュニティとの関りなどという日常の各要素を事細かに書いていく前に、先ずどういう世界を自分の身の回りに築くかというすべての未来の日常の土台や前提になる部分を入念に書いておく必要があると思います。そのベースの上に細々とした日常の行為は成り立っていますから、逆に言えば、土台さえしっかりと書いてしまえば、あとの日常を構成する各パーツも自ずと決まってくるだろうと思います。

それで、どういう土台の上に立つ世界を築くのが良いのだろうかと考えてみますが、結局のところ、今の社会からはじかれたか、自ら退いたかして部屋に引きこもることになったのですから、今の社会との相性は率直に言って良くはありません。となると、今の社会のベースとなっているような価値観なり世界観なりをそのまま受け入れて、自分の遠い未来を書くことは良策ではないように思います。今の社会に興味も魅力も感じないから引きこもった部分もあると思いますので、自分の未来という理想の現実の前提をわざわざそこに置かないほうが良いように感じます。少しそこから外れたところに自分の未来の土台を築いてみます。

今の社会では、スーパーに並べられた商品であろうと、どこかで何かサービスを受けるのであろうと、誰に対しても単一価格が設定されています。どんなにお金をたくさん持っている人でも、お金が全くない人でもスーパーである商品を買う場合は、同等の金額を支払います。例えば、100円ならば100円で人によりその100円の価値が違うはずなのに、そうなっています。大きな社会を営むには、そのように誰に対しても同等の一定価格を決めないと前に進むことができないと思いますが、本当にミニマムな自分の身近な世界ではそれを採用しなくても良いのではないかと考えています。

前に書いたように高齢者向け何でも屋では、お金でなくても食料などでサービスの対価を支払ってもらっても良いことにしています。それは、全く同じサービスであっても対価が人によって異なるということです。お金で支払う人、食料で支払う人、食事を提供して支払う人と同じサービスを受けても対価がバラバラです。ここには誰に対しても全く同じ単一価格が設定されていません。サービスを受けた人それぞれの状況に合わせてサービスの価格も変動します。だから、同じサービスであっても、お金に余裕がある人は少し多めに支払い、お金がない人は少しだけ払うことができます。そうなると、全く同じサービスなのに、人によって料金が変わるのは不公平だとなりそうですが、100円の価値は人によって異なるのに全く同じだけのお金を支払わないといけないほうが公平ではないのようにも思えてきます。

 でも、そういうことを大きな社会の中ですることはできませんので、自分の未来の小さな社会の中で実現できるように未来を書けば良いと思います。そういう前提に立った自分の遠い未来を書けば良いのです。社会に出ていくのが怖い、自信がない、と感じて部屋に引きこもっているのならば、そういった恐怖を感じない理想の社会としての未来をミニマムに身の回りに作り上げられるように活動すれば良いだろうと考えています。また、今ある社会がつまらないと感じているのならば、それとは違う前提や土台に立った自分の未来を身近に作ることに全力を尽くせば良いと思います。

その活動を始めるうえで、先ずは今の社会とは異なるものをベースとした自分の未来を書いてみます。なかなか上手く折り合いがつかない今の社会とは異なる土俵のもとに自分の理想の現実としての未来を書いてみます。自分が生きやすいと思える心地良くて小さな場を身の回りに作るべく、その世界観を書きます。どういう価値や行動基準に従うかという重要な点を書くことになりますが、得意ではない今の社会を参考にそれとは違うものにすれば良いだろうと思います。それを書いて自分一人でそれに従って行動したとしても誰も何も言ってこないはずです。気にする必要はありません。自分の未来ですから、自分自身でしっかりと未来の前提を書いていきます。そして、その上に立った日常の細かな要素も見て書いてみます。

当然ですが、自分の理想の現実としての未来を書きあげたとしても周りの人に伝える必要はありません。自分の未来を一人でしっかりと見て書いて、実際の現実と照らし合わせて、また一人で見直していけば良いだけです。余計な騒ぎは起こさないように気をつけます。また、もし自分の未来の前提や土台、どのような価値観や判断基準を未来で持っているか、ということを書くのが難しいならば、その未来でどのようにお金を使っているかを考えてみます。今の社会ではお金は最大級の価値を持っていますから、その価値あるものをどう使うかという利用方法で自分が何に、どういうことに重きを置いているか表明できます。お金の使い方に自分の価値観が現れ出ます。だから、未来でどういうふうにお金を利用しているか想像することで、未来の自分の価値観が見えてきます。お金を支払って購入したものやサービスを書き出してみると、今の自分が何を重視しているのかある程度掴めると思いますが、それを未来の理想の現実の中でもしてみるということです。そして、そのお金の使い方をもとに未来の前提や土台を書きてみます。

と、ここまで移り変わる未来を書くことを見てきましたが、すべてが変化していく中で、何か変わらないものを人生を通じてずっと持つことはできないものだろうかと考えてしまいます。すべてが変わっていくからこそ、その中であえて変わらないものを持ち続けることが重要な意味を帯びるのではないかと思います。そう考えてみると、これまで色々と書く行為を利用してきていますので、一生ずっと書き続けることを、どんな時でも変わらない、自分の中の芯のように不動なものとして持つのが良いのではないかと思えてきます。変化していく中で不変の柱のように命が果てるまでずっと続けていく行為として書くことを次に考えてみたいと思います。

コメント

このブログの人気の投稿

独り言の効用 おわりに

  おわりに 充実した独り言ライフへ    独り言マスターへの道    独り言劇場。いかに独り言を活用するかという方法を見てきましたが、これは日常生活にも通じていて、引きこもりライフから独り言ライフへの転換をも目指しています。独り言を使って日常を充実させる実験でもあります。独り言という今まで有効活用されずに見過ごされてきた資源に目を向けて、それで自己充足を目指す試みです。  引きこもりライフで溢れ出てくる独り言は、実はとめどなく次々と湧き出てくる貴重な資源だったのです。お宝です。人と普通に話すという行為を放棄してしまった人のところに届けられる恵みです。その有り難い助け舟をみすみす逃してしまうのは、あまりにももったいない行為です。金銀財宝をどっさりと積んでこちらに向かってきてくれるのですから、感謝して受け取るべきです。  独り言は宝の山だと気づけば、こんなに嬉しいことはありません。なにせ毎日、毎日、頼みもしていないのに、どこからともなく自分のところに届けてくれます。部屋中に沢山の独り言が所狭しとひしめいています。それをどう使うかだけです。自分を苦しめ、悩ませ、暗く落ち込ませる道具として利用するのも、楽しく面白く笑える材料として活用するのも、自分次第です。手元に最高級の食材は用意されています。それをどう自分が料理するかだけです。  独り言は助け舟であり、相棒であり、パートナーです。良いも悪いもありません。良いパートナーとするか、悪いパートナーとするかは、こちらの責任です。せっかく、絶え間なく送らてくるのですから、良い関係を結んで充実した独り言ライフへ突き進んだほうが、楽しいし面白いです。一人で部屋の中で楽しんでも誰も気にしません。部屋の中で一人で苦しみ悩んでも誰も気にしないのと同じです。そうならば、面白おかしく独り言と戯れて、独り言を自分のベストパートナーにしてみます。  一人でありながら、本当は一人ではなかったのです。いつもそばに独り言がいてくれます。そんな稀で貴重な存在なのですから、優しく丁寧に感謝の念を持って接してみます。どんな時でもそばにやって来てくれるのですから、こんなにありがたいことはありません。だから、閉じられた暗く湿った独り言から開かれた清々しい独り言へと進むべきです。  独り言ひとつで日常が変わるのです。日常が変われば歩んで

独り言の効用 2-2

  2-2. 独り言のバリエーション キャラクター作り  人工物に対する独り言 そこにある物体、物たち   次は、生きていない物、人工物を独り言内対話の対象にできるか見ていきます。生き物や自然物ではない物に話しかけられるかということになりますが、これは普段の生活でもすでに行なっているだろうと思います。物に愛着を感じるということがありますが、それはその物と自分との間にある関係が作られているということだと思います。実際に物に話しかけないかもしれませんが、そこには何らかの対話が発生しています。  特に子どもの頃に大事にしていたぬいぐるみ、人形、本、おもちゃなどは、今、使うことがなくてもなかなか捨てられないという感情が湧いてきます。物が単なる使い捨ての物体ではなくて、そこに何かが宿っているという感覚をおぼえます。お墓参りでも、墓石という石を前にして拝みますが、それは物体としての石に話しかけているわけではなくて、そこに宿る祖先や死者に語りかけているのだと思います。聖遺物などもその物自体ではなくて、その後ろに広がる関係が大切になってくるはずです。だから、もしその物が表す関係を感じられないなら、その物は単なる物体でしかなくなって、使わないのだから、必要ないのだから、捨てれば良い、というような考えになっていくのだろうと思います。  物と何の関係も結ばないこともありますが、物に名前を付ける行為や物を自分の所有物だと見なす感覚が、物と自分との関係を発生させる契機になるのかもしれません。ただ必要だから、便利だから使うというのではない、その物でないと駄目だというような唯一性の関係が結ばれるのだろうと思います。  物もある意味生きていて、こちらに語りかけてくるし、こちらも話しかけるというようなことは子どもの頃はよく経験していたはずです。人工物と生き物や自然物を区別するという感覚が薄く、何とでもコミュニケーションできるし、実際にしていたのかもしれません。   そう考えて いくと、独り言内対話の相手として人工物も対象にできるはずです。実際に今の生活で愛着を感じている物や捨てられない物があると思います。そのすでに何らかの関係を結んでしまっている物体に話しかけることから始めてみます。声に出して物に話しかけるのは変な感じがするかもしれませんが、部屋の中で一人で簡単にできるこ

引きこもり当事者カラッと研究術 3 パート1

3-1 .引きこもり当事者カラッと研究小説 パート 1 穏やかに落ち着いた心持ちになって、さて何をするか、ということですが、ネガティブな感情や記憶を封じ込めるために自分の過去に関する物語を書くのが良いのではないかと思います。日々、悩み苦しむだけの死に時間は、自分自身についての資料作りの時間に変えていっていますが、その溜まっていく資料には当然、膨大な自分に関する情報が書き込まれています。自分の心の癖や習慣や傾向だけでなく、どんなことで落ち込んで暗く沈んだ気持ちになるかなども具体的な出来事とともに大量に書き記されていると思います。 この資料は、自分自身の言動のパターンや感情の動きを掴むために日々、読み込んで利用することを目指していますが、せっかくこれほど多くの自己情報が集まってきていますので、それをもとに自分自身に関する過去の物語を一つ書いてみれば良いだろうと考えています。手元にある資料には、引きこもる要因になった過去の苦い記憶、現在の生活の苛立ちや焦り、未来の不安などが書き記されていると思います。そこの過去の部分を取り出して物語として封じ込める、けりをつける作業に心穏やかに挑んでみてはどうかと考えています。 部屋に引きこもる生活を続けていると、どうしても辛い過去の記憶や苦い昔の思い出が頭に浮かんできて苦しめられることがあると思います。それを資料作りとして書き出して、漠然としたものではなくて具体的な出来事として捉えようとしていますが、それでもしばしば過去に悩まされます。この過去という古傷に過剰に痛めつけられないために、資料として書き出している過去の個別の出来事を一つにまとめて物語に仕立て上げれば良いのではないかと考えています。過去をまるまる一つの物語の中に放り込んでしまえば良いのではないかと思っています。 資料作りの段階で、思い出したくもないのに頻繁にどうしても思い出してしまう嫌な過去を具体的に掴んでいく作業を行っていますので、そうやって得た散々な過去のそれぞれの記憶のパーツを組み合わせるようにして一つの物語にしていくということです。惨めな思いを今でも引き起こす過去に関する一つの大きな物語が出来上がれば、その中にもう見たくない過去は存在することになり、ある種、昔の痛ましい出来事との区切りや決別ができるのではないかと感じています。過去保管ボックスの