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引きこもり当事者カラッと研究術 3 パート2

3-2.引きこもり当事者カラッと研究小説 パート2

先ず、カラッと研究小説を書いている最中に、周りの人に今、物語を書いているなどと伝えないほうが良いと思います。家の掃除や食事に関与することで周囲の人との関係も良い方向に向かっていると思いますが、そこで物を書いていると打ち明けてしまうと今までの努力がすべて無駄になりかねません。

基本的に僕たち引きこもりは、人と接するのが苦手で、自分の思いを話して伝えるのも得意ではないと思います。口下手な僕たちが、十分な説明もできずにいきなり物語を書いているなどと発言してしまうと、周りの人は驚き、困惑し、怒り、宥め、そんなことをする時間があったら真面目に仕事を探して欲しいなどと言い出してくるかもしれません。そこで、さらに自分自身のために、自分の辛い過去対策として物語を書いているのだといくら力説してみたところで、周りの人は分かってはくれないようです。下手をすると言い争いのようになってしまって、関係を悪化させかねません。そして、揉めて嫌な気持ちになり、自分がやっている行為も誤解されたまま全く意味のない落胆が待ち受けています。落ち込んで心穏やかに過ごすこともできなくなり、果てはカラッと研究小説を書き続けることもできなくなってしまう可能性もあります。

そのような状態を招くことは当然、本意ではありませんから、やはり誰にも何も伝えずに黙々と一人で書き続ければ良いだろうと思います。今の時代、一銭にもならないことに多くの時間を割いていると、直ぐに無駄なことだと切り捨てられてしまう傾向があるように感じます。本人もそれで別に稼ごうとも、何か人よりも得をしようとも思っていないなら猶更です。しかも、それを楽しそうにやってしまうと、さらに攻撃されてしまいます。いくら自分にとって生きていく上で労働よりも大切で重要な行為だとしてもです。お金にならなくて何か自分が人よりも得をしないことに夢中になることは、特に大人がそうすることは、現代のダブーのようにも見えます。そんなことに大量の時間を費やすのは、狂気の沙汰のように見えるのかもしれません。気が狂っている、という認識を持たれているのに、いくら自分は正気だ、大丈夫だ、何の問題もない、と言い募ったところで、ますます頭がおかしくなったと思われてしまうだけです。

おそらく、労働をしながら、ほどほどの時間をお金にならなくて何の得にもならない行為に費やすのならば、まだ許容範囲ということでしょうが、仕事に従事していないままそれをしてしまうと許してはくれません。ですから、必要最低限のお金を得るための賃金労働についても考えないといけないと思いますが、とりあえず今は部屋に引きこもって大量の時間を手にしているのですから、先ずは思う存分、それを自由に使ってみてみます。せっかく奇跡の日々を生きているのですから、普通なら到底できないようなことに多くの時間を費やしてみます。

そして、誰にも打ち明けずに密かに自分のカラッと研究小説を書き続けて完成させた後、どうするのか。自分自身のために書いていますし、自分が引きこもった要因やコンプレックスも書き記していますし、過去保管ボックスのように自分のためだけに大切にどこかにしまっておくのが良いのだろうと思います。また、パソコンで書き終えた場合は、デジタルのままで保存しておくだけでなく、紙の書物として一冊だけ自分用に製本してみるのも楽しいだろうと思います。ネットで調べてみると、そういうサービスを提供してくれるところもあるみたいで紙質やデザインやフォントなども自分で好きに選べるようです。自分だけのオリジナルの書籍として一冊だけ作って大事に部屋のどこかに保管して、あの中に過去はある、と具体的に物として感じてみるのも良いだろうと思います。

そのように書き終えた後であっても自分だけの秘密として手元に置いて、人に読んでもらうような行為は控えるべきだろうと考えています。先ず、自分以外には価値がないと思いながら書いていますから、それを人に読んでもらうのもどうかと思いますし、さらに、他人の評価に耐えられるのかという点もかなり気になってきます。超個人的なことを書いていますので、それを他者が読んで面白い、もしくは興味深いと思ってくれると過剰な期待をするのは禁物です。物語に全くなっていないとか、つまらないとか、と酷評されたり、または全然読んでもらえなかったりする可能性のほうが高いだろうと思います。

多くの時間を使って必死に書いてきた物に対して、人からそのような態度や評価を受けてしまうと、ショックで暗く落ち込んでしまう確率が高いように感じます。他人の評価を欲するばかりにそんなネガティブな感情に陥ってしまうのは、全く意味がない行為です。常に悩み落ち込まないように懸命に自分自身に関する資料作りをして、さらに苦い過去の物語を書いている最中もカラッと、サラッとした心持ちで居ようと心掛けてきたのに、そうやってようやく完成できた後に暗く沈んだ気持ちになってしまう危険性がある行動は自分の身のためにも避けるべきです。

何も物を書いて他人の評価をどうしても得ないといけないわけではありません。自分のためだけに物凄く長い物語を書いても何の問題もないはずです。それにどれだけ多くの時間を費やしたとしても、また、それで全くお金が稼げなくても、問題はありません。もし執拗に襲ってくる過去の記憶からその自分で作り上げた物語で多少でも対抗することができるならば、それで十分に満足です。また、もしそれができなくても、次から次へと書き続けていけば良いわけですから、何の心配もありません。

それを下手に人の手を借りるような真似をしてしまうと、痛い目に遭います。部屋に引きこもって基本的にそれほど人と接しない生活を送っていますから、その状態のままで人の意見を聞こうとすると、その意見にもの凄く反発してしまうか、それとも、べったりと依存してしまうかの極端な反応をしてしまう可能性もあるだろうと思います。人にとってどんなに価値がなくても自分にとってはとても大事な物語なのですから、慎重な態度が必要です。ですから、リスクを考えると、人に書いた物を見せる必要性をそれほど強く感じませんが、どんなに酷いことを言われても挫けることもなく気にしないというのであれば他人の評価を得てみても良いのかもしれません。あまり想像することはできませんが、もしかしたら、面白い、素晴らしいという評価を得られることもあるかもしれません。

しかし、それでも周りの人には読んでもらうべきではないと思います。今、親しい対人関係を築いている唯一と言ってもよいほどの人たちであり、ここの関係がどういう状況であるかが直接自分の日常に影響を及ぼしてきます。ですので、好ましくない結果を導く可能性があることは排除すべきだろうと思います。また、あまりにも近い関係ですので、向こうの反応やそれに対する自分のリアクションも感情的で過剰なものになりがちです。どうしても自分が書いた物を人に読んでほしいと思ったとしても、周りの人に見せるのはやめておくべきだろうと考えています。この周囲の人との関係は、常に心地良く気持ち良いものにすべく心掛けます。無駄な争いは必要ありません。評価がどうしても必要なら、もう少し距離がある関係の人から得るようにしてみます。

そして、そうなると人の評価だけでなくて、さらに自分の物語や文章でお金を稼ぎたくなるかもしれません。人にとっては無価値と思って自分のために書いたフィクションや文章でお金を得ようとするのも変な感じですが、過去対策の上にさらにお金ももらえれば素晴らしいことかもしれません。でも、そうであっても、書いている最中に、本として出版して多くの人に読んでもらってお金をたくさん稼ぐというようなことをメインに考えたりはしません。それはあくまでも二次的なものであって無くても良いものです。

自分自身のために、今も自分を苛む昔の記憶や思い出を閉じ込めるために行なっている作業であって、人に読んでもらってお金をもらうことが第一目的ではありません。そこをしっかりと意識していないと、自分が書いたフィクションや文章が人に認められずに出版されない事態に酷く落ち込んでしまうかもしれません。さらに、その長い物語を書くために費やした膨大な時間はすべて無駄だったと思ってしまうことさえあるかもしれません。そうなってしまうと、本当に何のために書き続けて完成させたのか分からなくなってきます。そんな無茶苦茶なことはありません。出版されなかろうが、誰からも評価されなかろうが、もしくは誰一人読んでくれなかろうが、完成させた時点で自分自身には十分すぎるほどの価値があります。そのために大量の時間を使えたのは、これ以上ない幸福なことであって決して無意味でも無駄なことでもありません。出版してお金を得ようと試みる場合でも、そこのところは忘れないようにします。

そのことを常に念頭に置いて、お金を稼ぐために出版を目指すなら目指してみます。ただ、そうは言ってみても僕たち引きこもりは、お金を得ることが得意ではないだろうと考えています。部屋に引きこもっていて、社会経験も明らかに不足しているはずですし、労働をして対価としてお金を得た経験もそれほど多くはないだろうと思います。そういう状況で、自分で書いた物でお金を稼ごうとするのはかなり難しいのではないかと思っています。不得意で苦手なことで勝負を挑んでも、上手な人には勝てないように感じてしまいます。

また、書いている内容も何も引きこもりの思いや考えや苦悩を発表して世の中に訴えかけるというような大層なものでは全くなくて、単なる暇つぶしの趣味だろうと言われてしまえば何とも言い返せないような人にとっては価値がないだろうものを書き続けています。となれば、いくらなけなしの商人根性を発揮してみても書いた物で稼ぐのは困難な道になるだろうと思います。需要がないところに強引に供給してみても難しそうですが、そうは言っても提供されていないから、そこに目を向けようがないだけという可能性ももしかしたらあるかもしれません。出版してみることで、人の関心を呼び起こすことができるかもしれません。

それでも出版社に持ち込んでみても商業出版できる可能性は極めて少ないだろうと思います。ただでさえ、市場規模が小さくなっているところに、超個人的な体験や記憶を物語にしたものを売り込んでも大抵は断られるだろうと考えています。断られ続けても何社も何社もお金をどうにか書いた物で稼ごうと持ち込むメンタリティーがあれば良いですが、耐えられないかもしれません。拒否され続けると、何だか自分自身が否定されているようにも感じてきてしまって、直にダメージを受けてしまうおそれがあります。そうして、体も心も消耗しきってしまい、その先に落胆や絶望が待ち受けているかもしれません。

それは最悪の帰結です。どんなことがあっても避けないといけないことです。何とかどうにか自分のカラッと研究小説を書き終えたのに、それがもとで暗く沈んだ気持ちになってしまったら全く意味がありません。何もショックを受けるために、悩むために書き続けたのでも、人にとって価値あるものだと思って書き続けたのでもないわけですから、落ち込む行為は排除すべきです。すべてが台無しになってしまいます。

だから、もし出版社に持ち込んでお金を得てみようと考えたとしても、拒まれた時の対処法は予めしっかりと準備しておきます。商人として脆い精神力しか持ち合わせていなくて、こてんぱんにやっつけられて再起不能などということにはならないようにしておきます。再び立ち上がれなくなるような状態だけは何としても回避します。そんなことになるぐらいならお金を稼ごうなどとせずに命ある限り自分のためだけにずっと書き続けたほうが、はるかに幸せで自分の身のためにもなります。

ですから、出版社に持ち込む前に、先ずは、自分の商人気質、商人根性を見定めてみるのも良いと思います。どんなにガラクタでゴミのように人にとっては見えるようなものでも売ってみせるという気概がありますか。また、その気概を上手に相手に伝えることができますか。そして、相手にもこれは売れると思わせるだけの宣伝力がありますか。その自分の商人としてのレベルをじっくりと吟味してみます。自分が書いた物語や文章で金儲けに乗り出すわけですから、当然、売り手としての力量も問われてきます。その腕が良くないと、全く売れないどころか、市場に売り出すことさえできないといった散々な結果になるかもしれません。

そう考えてみると、前にも書いたように僕たち引きこもりはお金を稼いだ経験も十分にあるとは言えないだろうし、人と接することも苦手で不得意であるだろうし、出版社に持ち込むような行為は向かないだろうと思います。口八丁手八丁な人物像とはほど遠いところに僕たちはいるように感じます。金儲けは性に合わないように思います。

しかし、これだけ不利な要素があるからと言って、商業出版を目指してはいけないというわけではもちろんありませんので、自分の商人としての力を試したいなら試してみます。ただ、断られて落ち込んでしまうことがないように、心と体の準備とメンテナスだけは怠らないようにしておきます。たとえ思うような結果にならなかったとしても、当然ですが自分にとってはその物語は価値あるものであり続けます。人から評価されないからと言って、自分にとっての価値が下がるようなことはありません。上手くいかなかったとしても、それは自分の商人としての力が足りなかっただけだと思います。もし売り手としてもっと実力がある人がやれば、全く同じ物語であっても上手に売るかもしれません。だから、自分が書いた物を自分でも貶めるような行為は禁物です。どうであれ、完成させた時点で自分にとっては本当に大切な物語になっているはずです。

それに、もしかしたら持ち込みを粘り強く続けていたら、どこかの出版社が興味を持ってくれて是非うちから出そう、というようなことが全くないとは言えません。厳しいとは思いますが、可能性はゼロではありません。そうなると、カラッと研究小説の第一巻は、僕が書いて未発表ですので、『引きこもり当事者カラッと研究小説 第二巻』として商業出版してもらっても構いませんよ。リレー形式のようで楽しそうですし、ずっと終わらない物語として永遠に書き手を代えながら書き継いでいくもののようにも感じられて、とても興味深いです。

もうそうなると、自分のカラッと研究小説を完成させてそこで終了ではなくて、さらに、誰かにバトンを繋いだとも思えてきそうです。そういう目には見えない、実際にはあり得ないかもしれない長く果てしなく続く線上に自分の物語もあると感じられれば、また別の意味で自分が作り出したフィクションが大事なものになるように思います。もう誰が書いたとか、上手だとか下手だとか、そういうものも気にならなくなってきます。そういう流れの末端に自分も自分のフィクションも存在しているのだと感じてきます。それは素晴らしいことだと思います。そう想像できるだけでも有難いことです。

さて、また自分が書いた物語で稼ぐ方法に戻ると、何かのコンクールに挑戦して賞金を得るやり方もあると思います。でも、こちらもかなりハードルが高そうです。純粋に物語の内容や質だけで勝負する面が強くて、商人としてどうにかこうにか大したものでなくても売ろうとすることもできなくて、仮に商人根性がかなりあったとしても苦戦することは目に見えていると思います。作品の質だけを問われてしまうと、とても敵いません。

それでも、様々なコンクールが用意されているようですので、もっとも自分の物語に合いそうで賞金が高いものに駄目もとで試してみても面白いかもしれません。年末にちょっと宝くじを買ってみるような軽い気持ちで試しに応募してみるのも良いかもしれません。でも、落選して暗く沈んだ気持ちにならないように気をつけておきます。数枚買った宝くじが外れたからといって、ひどく落ち込んだりしないと思いますので、遊びとしてほどほどに楽しむためにチャレンジしてみます。

さらに自分の物語を世に出すのに自費出版という手もあると思います。でも、僕たち引きこもりは、お金をたくさん持っているわけではないはずですので、手を出さないほうが無難だと考えています。自分のお金を使って自分の物語を書籍出版するとして、売る自信がありますか。まだどこかに持ち込んで出版に漕ぎづけたほうが売れるように感じます。売る当てもないのに自腹を切るような真似はやめて、自分の物語を紙の書物として手元に置いておきたいならば一冊だけ製本してもらえば済む話しだと思います。それで十分だと思います。時間はたくさんありますが、お金はありませんので、ないもので勝負するような不利な闘いは避けるようにします。

どうも自分の物語でお金を稼ぐ道は困難を極めてきましたが、電子書籍として出版するというのはどうでしょうか。電子書籍として自費出版する場合、紙の書籍よりも安上がりでできそうですが、これも売れると思いますか。山ほどある電子書籍の中から自分の物語を見つけ出してもらって、しかもそれをお金を払って読んでもらえると想像できますか。この道も険しそうです。商人としてネット上で上手く立ち振る舞えるのであれば可能性もゼロではないと思いますが、かなり難しいと思います。手を出さないほうが得策だと考えています。

また、ネット上でどう売ればよいのか分からないからと言って、電子書籍の売り方といったようなハウツー本やマニュアルに助けを求めることはしません。自分の物語でお金を稼ぐという商人としての感覚は、ハウツー本などで簡単に得られるものではないはずです。さらに、そういうことを始めてしまうとお金を稼ぐことが第一目的になってしまって、そもそもどうして物語を書こうとしたのかという大事な動機の部分が自分でも分からなくなってしまいそうです。それでも、どうしても意地でも電子書籍として販売したいというのであれば、ハウツー本やマニュアルではなくて、実際に自費出版で売れている電子書籍のやり方を商人の目で観察して実践してみるほうがまだ良いのではないかと思います。

と、ここまで自分の物語でお金を得る方法を幾つか見てきましたが、実は僕も一度だけ自分のカラッと研究小説第一作目をある出版社の編集者に持ち込んだことがあります。自分のフィクションでお金も稼ぐことができればこれ以上良いことはないと思って挑戦してみました。持てる限りの商人としての力を発揮して、この物語は売れますと必死に出版企画書を書いて提出しましたが、そんな僕のちっぽけな商人根性では全く敵いませんでした。無下に断られるという無残な結果になりました。

それで、その時に少し落ち込んでしまいそうになったのですが、そこで改めて気づきました。僕にとって一番大切なことは、書いた物を商業出版してお金を稼ぐことではない。そうではなくて、たとえ人にとって価値が全くない物であっても一生ずっと書き続けることだと。しかも、今、どうしても是が非でも自分の物語をお金に換える必要がなかった。そこが商人として駄目な部分なのかもしれませんが、何が何でも自分が書いた文章でお金を稼がないと生き延びれないということはない。そうならば、お金を得るという苦手なことには手を出さずに、心穏やかに日々、自分自身のためだけに静かに物を書き続けたほうが良いのではないかと思い至りました。一社に持ち込んだだけでこれだけ動揺してしまいましたので、それ以上自分で自分を惨めな思いにさせるような行為は慎むことにしました。

その後、僕のカラッと研究小説一作目を他の出版社に持っていくことも、コンクールに出すことも、自費出版することも、電子書籍にすることも全く目指していません。自分一人だけの長い物語として大事に保管しています。人に見せたりお金を稼いだりするためではなくて、純粋に自分自身のためだけに物語を作り上げるという行為も良いものだと今は思っています。ずっと書き続けていくわけですから、そういうフィクションの使い方も試してみる価値があると思います。今は、誰でもどんな日常の些細なことでもネット上などで公開する傾向が強くありますが、その流れの正反対の方向へ、しかももの凄く大量の時間をかけて向かうのも面白いかもしれません。お金も他者も全く介入しないところで自分だけに自分で物語る作業です。楽しそうです。

と、書きながらも、果たしてお金を稼ぐことも目指さず、自分以外に誰も読む人が全くいない状況で永遠にずっと書き続けていくことができるのだろうか、という疑問も正直に言うとあります。死後、評価されるということは先ずあり得ませんから、まさに自分で自分に向けて死ぬまで書き続けていく作業を永遠と繰り返していくことになります。これはこれでとても興味深く、膨大な時間を使って頭の中にある全てを自動筆記のように書き残していくようで、そんなことをひたすら続けていくとどうなるのだろうかと妄想したくもなりますが、同時に本当にそれに耐えられるのかという思いもあります。自分の体も心も持ち堪えられず崩壊してしまうのではないかというおそれがあります。何も奇人変人になりたいわけでも、後世に名前を残す偉人になるわけでもないですから、ここは考えものだと思います。

だから、書き続けていく中で、書いた物すべてではなくて幾つかをネット上で公開するのが良策ではないかと考えています。ネットに無料で公開しておけば、本当に読まれるかどうかは分かりませんが、一応、誰でも読める状態にはあります。もしかしたら、お金もかかりませんので本当に読んでもらえるかもしれません。ずっと公開したままにしておけば、いつかは人の目に触れるかもしれません。それで、どうなるというわけでもありませんが、一応、自分以外にも読む人がいると、言わば、読者を想定することができます。読者獲得です。書店に自分が書いた本が並ぶことも、お金を稼ぐこともできませんが、自分以外にも読む人がいると思えます。

もうあとは想像で楽しめば良いだけです。読者さえ獲得できたと思えれば、たとえそれが絵空事であったとしても問題ありません。お金とか、商業出版して自尊心を充たすとか、そういったものは必要ではありません。ネットに公開して自分にも読者がいると、おめでたい奴になれば良いだけです。そうやって、生涯ずっと書き続けていくための体と心のバランスを保つことができれば、それだけでほかに何の文句もありません。そのために、少しネット空間を日常に取り入れれば良いと考えています。

それでも、書き続けていく物すべてをネットで公開するのはどうかと思います。何もかも無視して完全に自分に向けてのみ作り上げた物語や文章であれば、それは自分だけのものとしてどこにも公開しないのが良いだろうと感じます。そこに自分以外の読者はいらないと思います。それほど極私的なものまで人に見せる必要はないと考えています。

そうなると、読む人を想定した物語や文章と全く自分自身のためだけのものとに書く物が分かれてくると思います。当然、読む人を意識した文章としていないものとでは書き方も内容も異なってくるだろうと思います。大きく分けるとその2パターンで物を書くことを死ぬまで楽しめば良いのではないかと考えています。

そういう永遠に書き続けるための一助としてだけネットを利用しますので、あまりネット空間に深入りして閲覧数などを過剰に気にしたりはしません。あくまでも、自分にも読者がいると勝手に想像する上で便利な道具として使っているだけです。飲み込まれてしまわないように気をつけます。

また、まさか考えていないとは思いますが、ネット上に自分の文章や物語を公開してそれでお金を得る必要は全くありません。それは本当に厳しい過酷なものだと思いますので、弱々しい商人として挑戦してみても、ぼろくそに打ち負かされるだけのように感じます。そして、その負けに、つまり、どれだけたくさん自分が書いた物をネット上に公開しても全く稼げない状況に落ち込むかもしれません。それは必要ない行為です。そうなってしまう可能性が高いと予め分かっているのですから、当然、避けるべきです。そんな負けると分かっているところで戦おうとすることほど無茶苦茶なことはないと思います。丸腰で何の考えも策もないまま苦手で不得意なことに突撃していっても、たとえそれをどんなに本人が真剣にやっているとしても、あっさりといとも簡単に倒されてしまいます。そんなことはやめておくべきです。無理は禁物です。体や心の害になることを進んですることはないはずです。

あと、ネット上に物語や文章を公開して読者を想定したとしても、その゛架空゛の読者とのネットでの対話やコミュニケーションにはさして期待しないほうが良いと思います。あくまでも自分にも読者がいると勘違いだとしても思えるためにネット上に公開するだけで、実際に読んだ人からのリアクションなどは気にする必要はありません。悪評だろうと、または、全くのノーリアクションであろうと、問題ありません。ネットに公開するのは、生涯書き続けていくという目標を達するための一つのアイテムでしかありませんので、ネット空間に固執し過ぎません。方法それ自体が目的にならないように気をつけます。そうしないと、ネットを利用する時間が増えてしまって、書く時間自体が削られてしまいかねません。その辺りのバランス調整は、日々の活動表や計画表の中で見直しながら行っていきます。

結局、そうやって一人でずっと生涯書き続けると決めてしまって、毎日、毎日、飽きもせずに人知れず書いていけば良いと思います。そして、たまにネットで公開して読者がいると楽しんでみたり、一冊だけ自分のために製本して喜んだりすれば良いだけです。また、昔の嫌な思い出や記憶に悩まされたら、その都度、カラッと研究小説を書き繋いで過去にけりをつけるようにすれば言うことなしです。そして、周りの人には物を書いていることを全く告げずに心穏やかに心地良い空間や場所を少しずつ周囲に広げていければ最高です。そのまま人生を全うできるのであれば、それでも良いのではないかとさえ思えてきます。でも、当然、たった一人だけでは生き延びていくことも出来ませんから、次に僕たちが決して得意ではない対人関係について考えてみたいと思います。

 どうすればあまり話すこともなく心地良い人間関係を築くことができるでしょうか。大して話さなくてもその場を気まずくないものにすることは可能なのでしょうか。たとえそんなことができなくても、対人関係が苦手で不得意な僕たちにとっても他者が全く必要ないということはあり得ませんから、何らかの対策を施さないといけないだろうと思っています。その方法を次は考えていきたいと思います。一生ずっと書き続けるということは、いかにずっと生涯書き続けていける環境を周りに作れるかにかかってくると思います。当然、その環境の中で人との関係も見逃せませんので、そこを次に見ていきます。

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