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引きこもり当事者カラッと研究術 6

6お金がなくても生きていける道へ 

人と接することもお金を得ることも苦手で得意ではないというハンディを負っていますが、当然ながら対人関係からも賃金労働からも全く目を背けることはできません。ですから、僕たちも下手なりに外に出てお金を取りに行かないといけません。どんなにいくら部屋や家を綺麗に居心地の良いところにして、しっかりと食事の手伝いをしていても、お金を得る行為を全く行わないままだと周りの人も多くの場合、納得してくれないようです。

しかし、だからと言って、焦って慌てて行動に出てみても、上手くいかず落ち込んでしまうだけだと思います。貴重な時間も浪費してしまいます。ここは、先ずしっかりと労働が苦手で不得意だと自己認識しておきます。自分で自分に十分にそれを認めていないと、嵐のような激しい金銭獲得競争に無防備なままエントリーすることになって、お金を得るどころか身ぐるみを剥がされてしまうかもしれません。不得意なことは不得意なのです。仕方がありません。認めて諦めるしかありません。それをいくら上達しようとしても、もともとのベースからして違う人たちには敵いません。そういう状況でありながらも、それでも生き延びていくために僕たちも外にお金を取りに行きます。その現状をよく理解していないと、泥沼にはまってしまうことになるかもしれません。

となると、お金を得る活動をし始めるとしても、最小限に抑えないといけません。そんな不利な場でいくら必死に頑張ってみたところで、得るものは多くないはずです。僕たちは、この社会の中で何かにつまずいて部屋に引きこもることになりましたが、世間一般の人々は、そこを乗り越えて、または何の疑問も持たないかのように、賃金労働に従事しています。もう学校教育の時点で仕事場での立ち振る舞いからお金の稼ぎ方まで身につけていったような僕たちから見れば労働エリートの人たちです。そんな人たちとお金を稼ぐ競争をしてみても僕たちが勝てる見込みは全くありません。そのことをしっかりと認めてしまいます。

相手の土俵で戦っても袋叩きにあって終わるだけです。賃金労働レースに他の人たちと同じように参加してしまっては終わりです。僕たちは、賃金労働エリートたちを相手にして、しかも出遅れている状態です。その遅れを取り戻ろうと躍起になってしまうことは、相手の思うつぼでカモにされるだけです。労働で、仕事で、世間一般の人たちに勝つ、いや、対等の立場に立とうという考え自体が間違っています。そんなことを目指したりしてしまうと、体と心を消耗してしまってそれで終わりです。

だから、苦手で得意ではない労働は、必要最小限に抑えないといけません。そこで争う気など起こしません。危険なところですから、十分に気をつけて小さく出ます。一獲千金など目指さずに、生活に必要なだけのお金を得るようにします。苦手で不利な場なのですから、必要以上のお金を稼ごうなどとは考えません。

そのため、先ず、今の自分の生活に最低どれぐらいのお金が必要なのかを把握してみます。労働に従事して少なくともこれだけのお金を得ないといけない金額を具体的に出します。不得意な賃金労働に乗り出す前に、日常を送るうえで月にいくらのお金が最低限必要なのかをしっかりと知っておかないといけません。それを知らずに、むやみやたらに賃金労働の場に出ていっても、自分がこの労働で何を得たいのかよく分からない状況になってしまいます。何のために自分の時間を提供しているのかはっきりとしなくなってきます。

だから、働いて最低限得る必要がある金額、別の言い方をすれば、働いて得るべき最高金額からスタートします。そこをベースにその分を外に出て取りに行ってみます。人によって状況は変わってくると思いますが、食費、光熱費、家賃、社会保障費等を確認して自分が月に最低限支払うべき金額を把握してみます。同居している人の頭数でしっかりと割って、自分が負うべきひと月の金額を算出します。それが、自分が月に賃金労働で稼ぎ出したい金額です。それ以上のお金を労働で得ようとは考えません。上手ではないことですから、生活に必要最低限のお金が得られれば、それで大満足です。万々歳です。そこで打ち止めです。決して深追いはしません。最低ラインが引けたら、それがすなわち労働で得るべきお金の最高ラインでもあります。そこがマックスなのですから、さらにその上などないのです。この最高金額=生活に必要な最低金額を目指して賃金労働に乗り出してみます。

当然、この最低限必要な金額を低く抑えることができれば、苦手な労働に従事する時間も減らすことができます。上手にできないことを長時間やり続けるのは、誰にとっても苦痛なことだと思います。その辛い時間を軽減できるのですから、積極的に日常生活に必要な最低金額を下げていきます。日々、全力でお金の流れを見直していきます。

節約は意識さえすれば、色々と行なえると思います。ここが上手くいけば、不得意な労働に費やす時間をカットできるのです。何でもお金で交換して得るのではなくて自分で行なうようにすれば、その作業に以前よりも多くの時間を割く必要はありますが、その分、必要なお金の最低ラインが下がりますので賃金労働に割り当てる時間は少なくなります。すべてをお金で交換して得ようとしなければ、済むことです。日常生活の中でお金が関与する範囲を今よりも少なくすることができれば、それだけお金を得る必要もなくなります。日常を見直して、お金が関わる範囲を狭めていけば良いのです。ひと月の必要最低限の金額を割り出して、そのどの部分をお金ではなくて自分の時間を上手く利用してカバーできるだろうかと考えてみると良いと思います。

時は金なり、と言われますが、時間はお金に対抗できるほどの価値を持っています。僕たちはお金はありませんが、時間は大量に持っています。今の社会で頂点に君臨するお金と同じように価値があるとされるものをすでに手にしているのです。凄いことだと思います。だから、僕たちはお金ではなくて時間で勝負すべきです。アウェーであるお金の価値を自分の中でどんどんと下げていき、それに反してホームである時間のそれを高めていきます。苦手なお金を稼ぐことを自分の膨大な時間で補っていきます。お金が張り巡らされた日常ではなくて、時間が四方八方に流れまわっているそれを目指します。

 そして、そのようにお金が日常に及ぼす影響力を抑えながら、短時間の労働で生活に必要な最低金額を得ようとしてみます。その金額を短時間労働で得るのは大変かもしれませんが、長時間、不得意な賃金労働に従事してしまうのは危険な行為です。お金を取りに行って体や心を壊してしまっては元も子もありません。あくまでも短時間労働を目指します。毎日、短時間、働くことで得られるだろう金額から逆算して生活に必要な最低金額のラインを決めていっても良いかもしれません。

また、どうやっても短時間の労働では最低金額に達しないとしても、いきなり長時間、働こうとはしません。無理は禁物です。今まで部屋に引きこもっていたのです。外に出るだけでも大変なのに、それに加えてさらにお金を得るという不利な場にも挑んでいます。当然、その賃金労働の場では、これまた不得意な対人関係が待ち構えています。苦手なことが折り重なっているかなりストレスを感じる場に赴くのですから、いきなり長時間その場にいるべきではありません。そんなことをしてしまうと、良くない結果になることは目に見えています。前もって分かっているのですから、自分で自分を傷つけるような行為は控えるべきです。自ら望んで好ましくない方向に進まないように気をつけます。故意に失敗するように自分で自分を仕向けないようにします。自傷行為に溺れても道は開けてこないようです。本当は、至るとこから光りが射しています。大丈夫です。何の心配もありません。

そして、また慣れも重要なポイントになってくると思いますので、賃金労働に慣れるためにも先ずは短時間、働いてお金を得てみます。周りの人に足りない分は目をつぶってもらいます。先ずはそうしておいて、お金が関わらない生活にもっと磨きをかけていきます。また、各種社会保障制度を利用できるようならば、それも手だと思います。

とにかく、短時間の賃金労働、これを基本に行動します。時給が高ければそれだけ不得意な労働に従事する時間も減らせますから、それに越したことはありません。ただ、僕たちは、お金を得ること以外にも人に接することが上手ではありません。いくら時給が良いからと言って、この弱点でお金を得ないといけないようなことは避けるべきです。苦手なことにさらに下手なことを重ねてしまうのは、得策ではありません。自滅してしまうだけです。だから、欠点や弱みが前面に出てこないような賃金労働に従事しないといけません。そのため、仕事を探し始める前に賃金労働条件を設定する必要があると思います。この設定条件の枠内に当てはまる労働の中でお金を得てみます。そのまず第一条件が、短時間ということです。

その次は、対人スキルをお金を得る労働でかなり求められてしまうのは厳しいことですので、コミュニケーションスキルがメインになる仕事はやめておきます。接客などの人に接して話すことでお金を得る仕事は選択外です。当然、どんな仕事であっても他者とともに賃金労働に従事することにはなりますが、極力、苦手な対話や会話が発生しにくい場を見つけ出してみます。黙々と作業をこなしてお金を得られる労働が良さそうです。それでも、勤務中にずっと全く口を開かないというのも無理ですので、この点から考えても短時間労働が良いように思います。

また、大きな責任が伴うような労働も避けます。短時間、お金を得る作業を行なうつもりですから、それほど責任ある仕事を任されることはないとは思います。それでも、ここも気をつけておきます。重圧に押しつぶされてしまっては意味がありません。もし作業を何か誤ったとしても、さほど大きな問題にはならないような労働でお金を得てみます。あくまでも深入りせずに軽くお金を稼いでみます。

さらに体力に自信があれば肉体労働、パソコン等に詳しいならIT関係などと自分の長所や強みを活かせる賃金労働に従事しようと思うかもしれませんが、お金を得る行為自体がすでに苦手なことですので、その不利な土俵でいくら自分に有利に働くように頑張ってみても思うようにはいかないだろうと考えています。前提であり土台であるベースのところにすでに苦手意識があります。それをどんなに得意で上手なことでカバーしようとしてみても難しいだろうと思います。ですから、自分の長所や強みが発揮できるかどうかではなくて、短所や弱みが露呈しにくいかどうかを判断基準として仕事を選んでいくのが良いのではないかと考えています。アウェーなところで必死に頑張ってマイナスをプラスにしようとするのではなくて、これ以上マイナスにならないように弱点では勝負しないということです。

賃金労働の場では、長所ではなくて短所を起点に動いてみます。今まで挙げた賃金労働条件(短時間、過剰な対人スキルなし、過剰な責任なし)をもとに自分の弱みを守りながら、お金を得る作業に乗り出してみます。弱点を狙われないようにしないといけません。また、労働条件に家の近くでお金を得るということも付け加えても良いかもしれません。外に出ること自体にストレスを感じることもあると思いますし、通勤時間が長いとそれだけで疲れてしまうかもしれません。

 とにかく、僕たちにとっては必要最低限のお金を得るためだけにしか賃金労働は存在しません。それ以上でもそれ以下でもありません。それは常に頭に入れておきます。ですから、あまり深刻に生真面目になり過ぎないでサッと必要な分だけのお金を得たら、直ちに賃金労働から距離を取るようにします。もうそれだけで僕たちにとって賃金労働の価値は十分にあります。それで大満足です。それ以上は欲張らないでおきます。大企業だとか、高給取りだとか、好きを仕事にだとか、夢を実現だとか、はっきり言って僕たちには関係ありません。

間違っても、好きを仕事に!というあの不思議な標語のような言葉に踊らされて、先ずは資格だ、などと思ってたくさんのお金を資格取得につぎ込んでしまったりしないように気をつけます。必要最低限のお金を得るだけでも大変なのに、その前段階でお金を失うような行為は慎むべきです。その分さらに稼がないといけない状況に追い込まれて自分の首を絞めてしまうことになります。

また、何かの資格や検定を得ることは、それによって賃金労働競争で有利に立とうとする行動だと思いますが、僕たちはそれを求めていません。この活動で人の上に立つことも、たくさんのお金を稼ぐことも必要とはしていません。資格などで自分に箔をつけることも、自分の賃金労働価値を高めることも必要ではありません。そんなことはせずに、長所や強みはとりあえず横に置いておき、弱点や欠点を過剰に攻撃されないように慎重にかわしながら、必要な分のお金を取りに行くだけです。この目的がはっきりとしているのですから、下手にお金がかかる資格や検定に手を出さないようにします。時間はありますが、お金はありません。なけなしのお金を減らすようなことはやめておきます。パソコンが使えないからと言って、パソコン教室に通うことはありません。パソコンを利用しない賃金労働に従事すれば良いだけです。

さらに僕たちは、お金を稼ぐのが苦手なのですから、好きを仕事に!の合言葉に上手く乗せられて好きなことまで労働、仕事に取り込んでしまうと、せっかくの好きなことが楽しくなくなってしまう危険性があります。苦手な労働と好きなことは、先ずは分けておいたほうが良いと思います。

 また、あの、夢を実現!という妙なスローガンからも離れていたほうが無難です。夢をどうして賃金労働で実現しないといけないのでしょうか。夢がお金にならないと意味がないということでしょうか。最初から夢や目標をお金と結びつけるように促されているようで、とても窮屈に感じてしまいます。

 おそらくですが、僕たち労働が苦手な者たちからすれば奇妙にも思えるこれらの標語やスローガンは、賃金労働レースを過剰に稼働させるためのガソリンのようなものではないかと思います。競争へと猛烈に駆り立てるためのある種の装置だと思います。ですから、過熱気味の賃金労働レースの端の本当に隅っこで必要最低限のお金だけを取りに行こうとしている僕たちは近寄らないほうが良いです。火傷するだけでは済まなくて、巻き込まれて多くの貴重な時間を奪われてしまうことにもなりかねません。

 僕たちにとって必要なお金を得るほかにやりがいなど賃金労働にありません。やりがいのある仕事など必要ありません。そんなことを賃金労働の場に求めるのは畏れ多いことだと自覚しています。それを、好きを仕事に、夢を実現、という装置に惑わされて見失わないように気をつけます。

 それでは、もうあとは賃金労働条件をもとにお金を取りに外に出ていくだけですが、実際にお金を得る活動の前にもう一つ厄介ごとが待ち構えています。面接です。どんな賃金労働をするつもりであっても、これを乗り越えないといけません。人と接して話すのが苦手な者としては高いハードルです。でも、面接に合格しない限り、お金を得る活動に乗り出せません。

 初対面の面接担当者相手にお金を稼ぐ手助けができる人材だと上手にアピールするのは至難の業です。上手くできなくて不採用になるかもしれません。そして、何度やっても採用されなくて悩み落ち込んでしまうかもしれません。そうならないためにも面接の前後が重要になってくると思います。もう面接中は仕方がありません。相手がいる場で圧倒的に向こうが有利な状況なのですから、その最中にどうすることもできません。そこには労力を注がずに、面接の前と後ろに注視します。短時間のパートやアルバイトを目指すのですから、何とかなりますよ。

先ずは面接前にできる限り徹底的にその企業の情報を得られるだけ得てみます。相手に関する情報は多ければ多いほど良いです。企業情報など集めたものの多くは直接面接で聞かれることはないと分かっていても、情報収集をやり続けます。人と話すことが最大と言っても良いほどの弱点なのですから、それを少しでもカバーできる可能性に懸けて情報を探し回ります。

そして、面接中に想定される質問とそれへの自分なりの回答をひたすらすべて書き出します。その自分なりに考え出した回答をしっかりと覚えて面接にトライしてみます。人と会話することが苦手で上手ではないですから、上手く話そうなどとせずに情報と暗記力で勝負してみます。面接後には、実際に聞かれた質問と自分の回答を書き記しておきます。それをトライ&エラーで見直して、次の面接につなげるというわけです。

ここで再度、賃金労働の本来の目的を確認しておきます。生活に最低限必要なお金を得るために賃金労働をしようとしています。それ以外はどうでもいいことです。本当の自分の姿など本当にどうでもいいのです。こちらはお金が欲しいだけで、向こうは、お金稼ぎを手伝ってくれる人材が必要なだけです。自己実現とか、自分探しとか、承認願望とか、色々とごちゃごちゃと賃金労働の場に過剰な期待を抱いてしまうから、こんがらがってしまって動き出せなくなってしまっている面もあると思います。もっとシンプルな動機であることを思い出しておきます。

人と話すのが不得意なのに面接の場に赴かないといけないのです。そこでは勝負できないのですから、それならば事前に一人で準備できる履歴書から戦いを仕掛けます。先手を取らないといけません。考えに考えて履歴書を仕上げてみます。紙切れ一枚、そんなもので人の何が分かるのだ、とも言われるその履歴書作りに全力を出していきます。ここで手を抜いてしまうと、面接で挽回するのは難しいですから、敗北してしまうことになります。面接中に質問が自分が望む方向に向かうように、注目してほしいところに面接官の注意が向かうように、必死にすべてを履歴書内に作り込んでみます。

要は、この難関突破のためにできることは、情報収集、模擬質問と回答作り、履歴書作成だと思います。また、極端な言い方をすれば、どんな汚いことやズルいことをしてでも合格するつもりで挑む心意気も大事かもしれません。そして、もし挑んで駄目だった場合は、貴重な次への情報収集だったと思えば良いわけです。これを繰り返していけば、どんなに人と接して話すのが得意でないとしても、どこかでお金を得る活動に乗り出せるだろうと信じています。

そうやって不得意な賃金労働にも従事するようになれば、周りの人もさらに静かになり、何も言ってこないと思います。短時間、お金を稼ぐ活動を行い、さらに家の掃除や食事の準備もするのですから、以前とは比べものにならないほど家の中の雰囲気も心地良い、気持ち良いものになってくるはずです。

しかし、残念ながら人は欲深いものです。そうやって必死に苦手で不得意なことにも取り組んでいるのに、周りの人は、少しずつ働き出してくれて良かった、と一度はほっとしますが、その状態がずっと続くことを良しとはしてくれないようです。もっと長時間の賃金労働を、あわよくば正社員になって仕事中心の人生を送ってほしいと願っているようです。

でも、やはり、そこまでの要求は自分の身を守るためにも受け入れないほうが良いように感じます。苦手なことに多くの時間を費やすのは本当に辛いことですから、長時間、賃金労働に従事し出すと、だんだんと具合が悪くなってくると思います。そして、しまいには、また悩み落ち込んでしまいかねません。それは避けないといけません。

また、あれほどの時間持ちだったのに、その時間を苦手で不得意なことにすべて使い切ってしまうかもしれません。自分で好きに自由に使える時間をたくさん犠牲にしてまで、そこまでしてお金をたくさん稼ぎたいですか。何のために生きているのでしょうか。もしかしたら明日死ぬかもしれない脆い命です。そんなに犠牲を払ってお金を取りに行って最終的に受け取るものが孤独死だったら、もうそれは発狂ものです。しかも、辛さに耐えて賃金労働を死ぬほどやってまだ稼げれば良いのかもしれませんが、賃金労働レースに参加して大金を得られる人は僅かなようです。

やはり、賃金労働が苦手で人と接することも上手ではない者は、お金を得る活動はほどほどにしておいたほうが良いと思います。あまり深入りしないで、軽くサラッと必要な分だけを稼ぐようにしてみます。そうでないと、自分の身を危険にさらしてしまいます。必死に文字通り命まで懸けてお金を追い求めて、そして一度掴んだら死んでも離さない賃金労働レースに、周りは労働エリートばかりの状況で、さらにそこに周回遅れで加わってもボコボコにされて終わりです。やめておきましょう。必要最低限のお金、短時間、過剰な対人スキルなし、過剰な責任なし、でやってみます。そして、どんどん日常でのお金の価値を下げていくようにしてみます。

それでは、ここからは面接後の実際にお金を得る活動の場について考えてみたいと思います。直接、人に接することでお金を稼ぐ労働は選びませんが、それでもその活動現場に自分一人だけということは少ないのではないかと想像します。多くのケースで誰か他者がその場にいると思いますが、僕たちは、残念ながらどうも賃金労働レースの現役世代の人とは相性があまり良くないようです。現役世代は、この過酷な賃金労働レースの中心にいて、お金を得ることに血眼になっているように傍からだと見えてきます。

僕たちのように必要最低限のお金を得るという目的ではなくて、現役世代はそれこそ全人生を懸けてレースにどっぷりと参戦しているようです。お金も稼げない何の得にもならないことに多くの時間を費やしたりするのは、信じられない愚行であり、正気の沙汰ではないと言われかねない勢いです。ですから、現役世代の人と一緒にお金を得る場にいると、向こうもわけが分からないでしょうが、僕たちも辛くなってきます。何をそんなに必要以上のお金を得ようとしているのか、何をそんなに人の上に立とうとしているのか、結局のところ何をやろうとしているのか、よく分からなくなってきます。だから、できる限り現役世代とは距離を取ったほうが良いと思います。辛い過去対策として物語を自分自身のためだけに書いたりすることは、全くくだらない時間の浪費だと見なされてしまいかねないようです。

そういうわけで現役世代ではない他の世代と付き合いたいところですが、子どもたちは周りの現役世代である大人たちが僕たちを遠ざけようとしているようですので、やめておいたほうが無難です。要らぬ疑いをかけられたくもありませんから。そうなると、現役を引退した高齢者だともう賃金労働レースから降りているので大丈夫だろうと思ってしまいますが、現役を退いたばかりの60代、いや、70代前半の高齢者でも、現役時代そのままのマインドでいることが多いようです。ですから、賃金労働から離れた高齢者だから問題ないだろうと思って近づくと、賃金労働マインドからまったく脱しておらず現役世代よりももっと酷くこてんぱんにやっつけられるかもしれません。

そうなると、もうお金とか、労働とか、見栄とか、名誉とか、影響力とか、そういうものが本当にどうでも良くなっているもっともっと死に近い人たちと接するのが良いのかもしれません。そういう人々は、働くことや人と会話することが苦手だとこちらが吐露したとしても、いきなり頭ごなしに怒ってきたりしないだろうと思います。金勘定とは離れたところで生きる、ということを教えてくれるかもしれません。そういう死のそばにいて、しかも、それをはっきりと実感している人たちとなら、もしかしたら上手く接することができるのかもしれません。

今は超高齢化社会で、たくさんの高齢者の方が日常生活を営むうえで何らかの手助けを必要としていると思います。行政や福祉や民間企業のサポートがありますが、孤独死などの問題を見るとまだまだ不十分でもあり、また、別の方法論が必要なのかもしれないとも思います。孤独死は、行政や民間企業など、いわゆる、゛赤の他人゛の手助けだけで対処可能な問題ではないようですし、そこに、ひょっとしたら僕たち引きこもりの力と時間を活用できる可能性が眠っているようにも感じてしまいます。

ですから、賃金労働を行なうようになる際に、高齢者支援サービスをする業種も頭に入れておいたら良いと思います。死に近い人たちと接することは、賃金以上のものを得ることになるとも思います。いずれは誰もが死にますし、死後のことは誰にも分かりませんし、そんな中で生きる身として今、命を終えようとしている人たちからは多くのことを学べるかもしれません。ひょっとしたら、初めて自分の苦しみや痛みに共感してもらい、自分以外の誰にも価値がない物を書き続けていることに深い理解を示してくれるかもしれません。そうなれば、これ以上幸せなことはないと思います。そういう出会いも現役世代よりは死に近い人たちとのほうがあるように感じています。

しかし、そうなると、すぐに福祉や介護関係の仕事を探そうとしてしまいそうですが、ちょっと動く前に考えてみます。いくら高齢者となら何とか上手く接することができそうであっても、現役世代とはかなり難しいということを思い出しておきます。また、いきなり介護の資格を取るなどという時間とお金を大量に使う行為もストップしておきます。

たとえ資格を獲得してどこかの介護施設で働くことを目指してもなかなか上手くいかないだろうと思っています。高齢者と接することよりなによりも、その施設内での現役世代との人間関係に躓いてしまう可能性が大いにあります。躓いて、落ち込んで、また引きこもってしまう危険性があります。それでは、せっかく大金をはたいて取った資格も台無しです。しかも、介護の仕事などはかなりの責任を負いかねません。そのプレッシャーに押しつぶされてしまうかもしれません。ですから、あまり専門的な分野や責任が重い業務を仕事にしないほうが良いと思います。

また、そもそも短時間の賃金労働をやり始めてもずっと続けていけるのか不安があります。どうしても同僚や上司といった現役世代の人たちと、たとえ短時間の労働であっても、ずっと何とか問題なく関係を保ち続けるのは難しいかもしれません。どんなにこちらが、賃金労働は必要最低限のお金を得るためだけだとスパッと割り切っていたとしても、周りの人々は労働にそれ以上のプラスアルファを求めているようにも感じます。多勢に無勢でそのような環境に居続けると、徐々にこちらの具合が悪くなってきます。それでも、必要最低限のお金を取りに行くために、辛くて不得意な労働にも短時間であれば耐えることができるかもしれませんが、そうであってもどこまで続けることができるかは覚束ないと思います。

だから、労働や人と接することが苦手で不得意な者として、結局のところ、できる限り自分で自分の賃金獲得方法をコントロールできる道を探す必要があるのだと思います。お金が必要な生活を送る限り、どうやっても苦手で不得意な賃金労働から完全に逃れることはできません。だったら、どうせ逃れられないのなら、一人でやったほうがまだ自分の身の健康にとっても良いのだろうと思います。

働いたことが碌にないからこそ、むしろ一人で必要最低限のお金を得る道を必死に探っていく必要があるのだろうと感じます。どこかで賃金労働に従事し始めてみても、いつか、どれぐらい先のことかは分かりませんが、具合が悪くなって働けなくなってしまうかもしれません。自分の身を守るためにも、どうにか一人で自分の生活に必要最低限のお金を稼ぐ方法を懸命に考え出さないといけないのだろうと思います。次は、そこのところを考えてみます。

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