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引きこもり当事者カラッと研究術 5

5有利な場に向けて 

僕たちが有利に上手く振る舞える場というのを考えていきたいと思いますが、先ずコミュニケーションや会話が苦手で不得意だということについて、それはあくまでも対人間で上手ではないという点を見ておきます。人と接して話すことが下手であることは十分に認めますし、上手くなろうなどと無駄なことはせずに諦めてもいます。でも、それは、人とです、人間とです。そこは見逃さないようにしておきます。

こんなことを言い始めると怪しい感じがしますが、会話やコミュニケーションを対人間だけに封じ込める必要はないのではないかと考えています。むしろ、僕たちのように人と会話するのが苦手で不得意であればこそ、コミュニケーションの幅を広げる必要があるだろうと思います。対人間だけに狭めてしまうと、もう僕たちが割って入れる隙間が全くなくて勝ち目がありません。そんな不利な土俵だけが用意された場でどんなに頑張ってみたところで、もっと上手な人は山ほどいますから敵いません。だから、少しはマシに振る舞えるだろう土俵をこちらで作ってしまいます。コミュニケーションの前提や土台自体を勝手に都合よく作り変えてしまいます。

その新たな場では、当然、人との会話だけが重視されるわけではありません。動物や植物や虫や空や月や太陽や季節や、それこそ霊のような存在や物やオブジェなど何でも、どうぞいらっしゃい、という感じです。コミュニケーションフィールドを人間界や現実社会だけに留めてしまわないようにあえてします。もしそこだけに留めてしてしまうと、結局、苦手で不得意なところで無理やり窮屈な状態で戦うことになり、当然ですが好ましくない結果しか得られずに落ち込んで悩んでしまいます。それは得策ではありません。誰もがコミュニケーションの範囲を人間に限定する必要はないはずです。自由に好きなようにあらゆるものとコミュニケーションしても誰も何も文句を言ってきません。人がどんなコミュニケーション世界の中で生きているかなど他人は気にしません。何の批判も攻撃も非難も受けずにできることなのですから、やらない手はないと思います。

しかも、そんなに変なことでもありません。動物と話す行為は、特にペットに話しかけることは、ごく普通に公園などでよく見かける光景です。また、お墓参りでは、手を合わせて心の中で先祖に話しかけます。神社やお寺でもそうです。単なるご利益信仰と言われるのかもしれませんが、何か見えないものに向かって話しかけています。

生きている生身の人間との会話だけに注意を向ける必要などないのです。それが苦手で不得意で自分の欠点だと思い込んでしまっているがために、その他の生き物や事物とのコミュニケーションに目が向いていないだけです。そこです。そこにこそ僕たちのコミュニケーションの、会話の可能性があると思います。楽しくも面白くもない人との会話はほどほどにして、もっと広く壮大な対話に向かっていきます。そこは、口が立つだとか、口下手だとか、そんなことは全く関係ないですし、言葉自体も必要としないところでもあると思います。そこでこそ僕たちは、もっと素直に自由に正直にコミュニケーションできるだろうと感じています。

もうそうなってくると、小さな閉じた人との会話ではなくて、もっともっと計り知れない大きなものと対話したいという欲求も生まれてくるはずです。対人間とのコミュニケーションに長けている人は、そこにあまり目を向けていないようですから、そこには僕たちが自由に好きに伸び伸びと振る舞える場があります。誰の目も気にせずに、その広々とした果てしない空間の中で思う存分、楽しんでみます。

近所の野良猫と話してみてもいいですし、毎日、月の満ち欠けを気にして夜空を見上げて月と会話してみてもよいと思います。草花に水をあげる際に話しかけても、風に揺らぐ樹に声をかけても、風そのものとコミュニケーションしてみても、はたまた料理の器と対話してみても、何でもありです。境界がない無限だと思えるほど会話の範囲を広げていってみます。

そうすると、こちらから一方的に話しかけているだけで会話になっていないのではないかと不安になるかもしれませんが、そんなことはないと思います。言葉を使ってではありませんが、話しかけたら必ず向こうは何か答えてくれます。人の言葉を介さないので理解というか、頭を使った理解は難しいかもしれませんが、何らかの反応を示してくれます。犬や猫など動物だと、対話している、というのが特に良く感じられると思いますが、動物でなくてもしっかりと心を開いて話せば大丈夫ですよ。対人間のコミュニケーションでは苦手意識から警戒心が働いて心を閉じてしまうこともあると思いますが、人とではない関係では世間体やお金や名誉など人間社会で大事にされていることは全く意味がありません。むしろそんな社会の習わしを引きずっていることのほうが、会話の弊害になってくると思います。ですから、何も気にせずに思う存分、心を開いてみます。

部屋にずっと一人で引きこもって人間社会からどんなに非難されていようとも、そんなことに植物は全く興味がありません。どんな人であっても水をあげてくれる人、育ちを気にしてくれる人に関心を寄せます。だから、何の問題も心配もありません。どんどん積極的に人とではない会話に乗り出してみます。対人関係だけで生き延びていくのが辛く厳しい僕たちにとって必ず助けになるはずです。

でも、こんなことを言い出すと、頭がおかしくなったと思われてしまいます。ですから、周りの人にそのことを伝えたり、空に向かって話しかけている姿を見せたりしないようにします。すぐに、変になった、おかしくなった、と騒がれてしまって、口下手な僕たちは上手に説明することができず、妙な方向に話しが流れていってしまいかねません。無駄な騒ぎや揉めごとは避けたいですから、一人で楽しく実行していきます。

また、コミュニケーションの相手を人だけに限定しないことが、巡り巡って対人関係にも影響を与えてくるだろうとも考えています。まず、人以外の生き物や事物と付き合える方法や場や時間を持ち得れば、たとえどんなに対人関係の場で惨めな思いをしたとしても、その痛みや傷から比較的容易に楽に回復できるのではないかと思います。関りを持てる相手が人だけではありませんから、人から受けたダメージも一つの対人という関係で生じたものだと少し離れたところから眺められるようになるのではないかと思います。さらに、もっと言えば、対人が下位でありサブで、それ以外の関係が上位でありメインだと思えれば、人間関係にあまり重きを置き過ぎないようになれるかもしれないとも感じています。もしそうなれれば、ひょっとしたら人間関係で受ける傷など全く気にもしなくなれるかもしれません。そして、傷を傷だとも思わなくなれば、対人関係に対して持っている苦手意識も薄れていくかもしれません。

だから、僕たちがコミュニケーションの相手を人間だけに狭めてしまうのは、とても危険でハイリスクな行為だとも言えるかもしれません。そんな無理はせずに、人とではない別のコミュニケーションチャンネルを持つように意識してみます。何も難しいことはありません。自分の周りに存在する人以外の生き物や事物に目を向ければ良いだけです。何でも良いのです。あらゆるものと対話してみます。そういう心構えを持つだけでも、以前とは違ったように世界が目に映ってくると思います。

そして、そのように世界を見るために、先ずは空を眺めることが気軽に簡単にできる方法ではないかと考えています。空は、毎秒のようにどんどん変わっていきます。光りが変わり、雲が動き、空の色が移ろいでいきます。同じ場所から空を見上げても、いつも違います。ずっと動き続けています。変わらないということがありません。同じように見えて、常に一定ではありません。朝焼けの空、雲一つない快晴の空、夕暮れの空などと部屋の窓から覗ける空と心を通じ合わせようとするだけでも良いと思います。これほどのバリエーションがあるのかと驚くほど多種多様な光景を見せてくれます。空の動きや変化の流れを感じられて、それに自分の心もつられて流れていくように思えれば、それはもう空と何かを交わし合っていることになるかもしれません。

また、空は常に動いていて一回性のものですが、夕暮れの空などを眺めていると、不思議なことですが子どもの時の記憶が呼び覚まされてくることがあります。月をどこまでも追いかけていこうとひたすら歩き続けた時の夕暮れの空が思い出されます。夕食の準備ができたと公園にまで呼びに来た母親の姿と夕暮れの空とカレーの匂いが思い出されます。妙な気持ちになってきて、何を悩んでいたのか、どうしてこんなに暗く落ち込んでいたのか、もう分からなくなってきます。そういう記憶をも呼び起こしてしまう空を眺めてみます。

と、ここまで僕たち引きこもりは対人コミュニケーションが苦手で得意ではないと書いてきましたが、悩みや不安に苛まれ続ける僕たちだからこそ、他者の痛みや苦しみに自分自身の心が共振することがあるだろうと思っています。今まで散々、自分で自分を傷つけ、そして、世間や社会、さらに親からさえも、社会の害悪だ、パラサイトだ、と非難、批判されてきた身であるからこそ、人の痛みや辛さに心が共振して、何だか自分の傷のように感じることがあるのではないかと考えています。

積極的に話しかけたり、何か話題を提供したりすることなど全くできず聞き役に徹している対人関係の場でも、この心の揺れを密かに感じることがあるのではないかと思います。この人ももしかしたら自分と同じように心に痛みを感じているのではないか、と勘違いかもしれませんがそう受け取って心が揺れ動く時があると思います。

この心の共振も、僕たちが引きこもって得たものであると考えています。せっかく苦しい思いをして獲得したものですから、蓋をして見ないふりをするのではなくて、微かな心の振れ動きであってもじっと見つめて、共振する力を伸ばしていければ良いと思っています。そこにまた僕たちが生き延びるためのもう一つの術が隠されているようにも感じています。この力をどんどん大きく成長させていくことでそれが少しずつ形を成していくように思います。

それを広げていくのを人とではないコミュニケーションが手助けしてくれるように感じています。植物や花や虫や月や太陽や風や雲と対話を試みることで、この心の共振能力が広がっていくのではないかと思います。じっと静かに動植物や自然と触れ合おうとする態度が、人の心の揺れ動きをも敏感に受け取れるための訓練のようになっていると感じます。そして、その対人ではない関係を経験することを通じて、対人関係の場で聞き役として何も話しかけずに他者の心の揺れを感じてじっと静かにそこにいるだけで、極端に言えば、その場の何かの助けになれているかもしれません。心の揺れや震えを逃さずに大人しくそっとその場にいることが、静かで落ち着いた空間を生み出すことに寄与するかもしれません。対話や会話の相手を人に限定しないことで、それが翻って対人関係の場で、ある種の佇まいを与えてくれると考えています。

普段、引きこもりとして対人関係の場では端役として片隅に存在していますが、その立場や役割は変わらないまま、ある種の輝きを手に入れられるようになるのではないかと思います。動植物や自然との対話を通じて、人の心の傷や痛みにさらに心が共振するようになり、物静かに人に寄り添うことができるようになるかもしれません。自然にそっと手を差し伸べることができるようになるかもしれません。人の痛みや苦しみに静かに寄り添えるという輝きを放てられるようになれれば良いと思っています。

それが、対人関係での僕たちの聞き役としてのまた新たな武器になると信じています。今までとは違った異様な光りを放つ者としての佇まいを得ることになるかもしれません。今まで対人の場の光りや輝きにずっと背を向けてきましたが、その姿勢を貫いていくことで妙な光明を見出すことになるかもしれません。その訓練としても積極的に人とではない対話や会話に進んでいき、別のコミュニケーションチャンネルを確保してみます。それが、きっと必ず僕たちの苦手な対人関係の場でも役に立ってきます。

と、ここまではあくまでも対人、対動物、対植物、対自然など違いはありますが、相手がいる関係で僕たちにとって有利な場とはどういうものがあるのか見てきましたが、今度は個人、相手がいないところでの得意なことを見てみたいと思います。もうこれはすでに分かり切ったことだと思いますが、部屋の中でずっと何年も何十年も閉じこもっていられるのですから、一人でいるのが上手であることは明らかだと思います。一人きっりでずっと居ても、妙な悩みや不安に苦しめられない限り問題ないはずです。

これは、やはり僕たちの武器だと思います。世の中には一人で居られない人もたくさんいますし、部屋に一人でずっと籠ることができない人も多くいます。また、一日中部屋の中にいて何もしないことに耐えられない人もいます。ですから、この僕たちの一人で居られるという利点に着目して磨き伸ばしていくべきだと思います。個室が一つあれば、その中で一人で何時間でも何年でも居続けることができるのは、長所です。この強みを活かせるようにすべきです。ここに力を注いで、もっと素晴らしい武器になるように鍛えていく必要があります。

しかも、すでにある程度、形になっていますから、伸ばしていくのも大変なことではないと思います。全く野球をしたことがないのに見よう見まねでいきなりバッドを握って、もうそれなりにボールを打てる人がいますが、そのような感じではないかと思います。素質のようにも感じてしまいます。もともと苦手でも不得意でもないことですから、下手なことが上手になるまでの果てしなく、もしかしたら、目標にたどり着けないかもしれない過程に比べると、はるかに楽ですし、辛く厳しい道のりではないはずです。

やはり、短所や欠点や弱点ではなくて、もっと長所や美点や利点に目を向けて、その部分を磨いて勝負できないだろうかと考えたほうが体にも心にも良いと思います。しかも、一人で居られる、という強みを伸ばしていくために何も特別な鍛錬が必要ではなくて、部屋にずっと引きこもっていることそれ自体がすでに日々のトレーニングになってしまっているはずです。これは驚きです。部屋の中で、一人でいる、一人で耐える訓練を知らず知らずのうちにしていたのです。もうそうなると、不意に襲われる悩みや不安や焦燥感や苛立ちなどは、一人で耐えるトレーニング内にあえて設けられた障害物のようにも感じてきます。この障害物を一つ一つ乗り超えていくことで、一人で耐える力が鍛えられていっているように思えます。だから、暗く沈んだ気持ちで落ち込むことも、この力をレベルアップするのに必要な負荷だとも見なすことができます。悩み落ち込むことを完全に排除するのではなくて、多少は鍛錬として残しておきたいという思いさえ出てきます。

人にとっては過酷な訓練にもなろうことを何年、何十年と毎日、飽きもせずにひたすら僕たちは行なっているわけですから、相当、一人でいる力が身についているはずです。鍛えに鍛えていますから、生半可な攻撃ではびくともしません。動じることなど全くありません。これほどの力を利用しない手はないと思います。それに見向きもしないのは非常に残念なことです。宝の持ち腐れだと言っても良いと思います。武器が、しかも、毎日、毎日、磨きに磨いている武器が手元にあるのですから、それを使ってみます。そこに目を向けないで、自分の弱みや欠点ばかりに囚われても仕方がありません。

一人で耐える、一人でいる力には、もれなく沈黙に強いという特典がついてきます。何も話さない状態が続いても気になりません。もうそれは日々のトレーニングで常態になるほどまで慣れてしまっています。だからこそ、苦手な対人関係の場でも、沈黙を貫いて聞き役に徹することができるのです。弱点である対人関係に対しても僕たちの武器で立ち向かおうとしているのです。下手なことはしていません。馴染みの有利な沈黙という時間と空間を不利な対人関係の場で上手く利用しているのです。だから、対人の場で静かに聞き役でいることを自分のものにできるのです。沈黙という時間と空間が、本来好きでリラックスできることを思い出して、心穏やかにいつものように沈黙と接すれば良いだけです。慣れの問題だけです。心配はありません。しかも、そこに人とではないコミュニケーションを通じて広げていった心の共振能力を発揮すれば、対人関係を過剰に意識することもなくなってくるはずです。もっと軽い気持ちで生き延びていくために必要な幾つもある中の一つの関係だと見なして人と接せられるようになると思っています。 

相手がいる場でも、そのように上手に自分の強みを活かそうとしているのですから、一人でいる時はなおさらその力が発揮できると思います。間違っても一人でいる場を、寂しい孤独なところなどと決して捉えないようにします。人から見ればネガティブな場こそが、自分にとって有利なところなのです。本来、自分が得意で上手に振る舞えるところを周りの風潮に流されて、否定的に捉えて好ましくない場と思わないようにします。もっとも自分が穏やかに心地良く過ごせる場であるにもかかわらず、そこを居心地の悪い不愉快なところだと勘違いすることほど無茶苦茶なことはありません。一人でいることは、何も悪いことではありません。僕たちは、それが得意で心地良いのです。

それを、そうだと分かっているはずなのにその素質からあえて目を逸らして、友人が一人もいない、誰も相手にしてくれない、生涯ずっと孤独だ、と嘆いてみせているだけです。本来ならば部屋に一人で引きこもって、その有利な場で自由に好きなように時間を使えばいいはずなのに、一人に耐えられないなどと思い違いをしているだけです。一人でいることができるのです。現にそうしていると思いますし、それが好きなのです。それが強みであり、武器なのです。自分に銃口を向けてしまってはいけません。

だから、本来であれば、その自分が得意で有利である一人でいる場を保持するために外に立ち向かっていくべきです。一人でいる場を守るべく戦うのです。そんな自分に有利で得意な場を見す見す手放してはいけません。まして、そこを不快な場などと思うのは論外です。日々、トレーニングを積んで鍛えているのですから、それを最大限に活かす必要があります。この最大の長所をなおざりにしてしまっては、勝ち目はありません。

ですから、一人でいる陣地を先ずはしっかりと確保してみます。もっとも心地良くて一人で落ち着ける穏やかな空間を作り出して、その根城を死守します。そして、出来る限りその上手に振る舞える一人の場所と時間を日常の中で広げていきます。そこがもっとも伸び伸びと自由に活動できる空間であり、時間であるわけですから、それが日々の生活で多ければ多いほど、それに越したことはありません。

そう考えると、今の引きこもり生活もそれほど悪いことはないと思います。自分で自分を責めて悩み落ち込むのさえやめてしまえば、居心地は悪くはないはずです。その自責や落胆癖さえストップさせれば、一人でいることは鍛えて慣れていますので、耐えることができます。もしくは、もう耐えるということもなくて、好きに自由に一人で楽しめる状態にまで鍛え上げられているかもしれません。

先ず、部屋に引きこもってやるべきことは、外に出かけられるようになることでも、対人関係のコンプレックスを克服することでも、職を得て社会活動できるようになることでもありません。変な悩みや不安に苛まれずに部屋に引きこもって自由に楽しく時間を使うことです。そして、それが何の問題もなくできるようになった後に、自分が有利なその場を守りつつ、徐々にそれを広げていけるように外に働きかけます。そうであるはずなのに、自分の不利な点や短所や弱点だけをいつまでも見つめて、そこを改善しようとしてしまうから上手くいかないのだと思います。そんなことはやめてしまって、自分の有利な点や長所や利点を見つめてそこを伸ばすようにしたほうが、はるかに楽であり、実践していて楽しいとも思います。

ここまで、対人だけではないコミュニケーションチャンネルを持てること、心が共振すること、一人で居られること、沈黙に耐えられること、と僕たちの有利なカードを見てきました。これだけの強力なカードが手元に揃っているのですから、あとはそれを有効活用できる場所と時間を可能な限り確保すべく動けば良いと思います。この際、自分の苦手で不得意なところには目をつぶって、この有利なカードをどう活かすかだけに考えを絞ってしまっても良いと思います。

部屋から出て、世の中で社会活動を行うようになるとしてもこの点は忘れないほうが良いと思います。社会の立派な一員に早くならないとなどと焦って行動してしまうと、自分の不得意で苦手な場所で長時間、活動してしまうはめになるかもしれません。そうなってしまうと、かなりの確率で体と心が消耗してしまうだろうと思います。得意ではない苦手なところにずっと長く居続けると、そうなってしまうのも当たり前です。しかも、それでせっかく得た仕事を辞めざるを得ないような状況にでもなると、以前よりもさらに落ち込んで部屋に引きこもって自分で自分を責めて痛め続けかねません。

以前の引きこもり時よりもさらに悪い状況に陥り、自分にはもうどこにも抜け道も出口もないと誤った確信を持ってしまう可能性もあります。山ほどあちこちに、しかも目の前に楽に通れる道があったとしても、それが全く目に入らないようになってしまうかもしれません。その状態は何としても避けるべきです。

だから、不得意で苦手なところに追い詰められて全く身動きが取れなくならないように、自分の有利なカードを武器として十分に活用できる場と時間を見極める必要があります。もう手持ちのカードは分かっています。あとは、それをどこでどういうふうに上手に切っていくかだけです。

ここでまた自分の日常の時間の使い方を見てみます。一日の活動表や計画表に今、自分が生きている時間をどんなことにどれだけ割り当てているかが書かれていると思います。そこに今の日常の時間の使い方が明確に記されています。今一度、現在の引きこもり生活の日常を確認してみます。上手に自分の有利なカードを使えているでしょうか。

一人で居られる力は問題なく発揮できていると思いますが、その時の自分の気分や感情もチェックしてみます。一人でいても心がずっと乱れているようなら、見直しが必要です。それでは、カードを有効に使っているとは言えません。自分自身に関する資料作りをして悩み落ち込み過ぎないようにしてみます。

沈黙に耐えられる力については、食事や家全体の環境作りに関わる際に確認してみます。周りの人に決して無理に話しかけようなどとせずに有効に得意な沈黙を利用できているでしょうか。何か話さないといけないと焦って気まずい雰囲気にはなっていないでしょうか。もしそうなっているようでしたら力を存分に利用できていない状況ですので、トライ&エラーを書き記して見直してみます。

別のコミュニケーションチャンネルを持てる力と心が共振する力は、部屋から出て外で活動する際に重要なアイテムになってくると思いますので、今の部屋に引きこもっている日常の中で武器としていつでも利用できるように磨き続けていきます。常日頃から人とではない対話や会話に目を向けて、心の僅かな揺れ動きをも感じられるように意識してみます。

おそらく、もうここまでで外に出て活動する準備ができたのだろうと思います。多くの対応策をこれまで部屋で一人で練ってきました。カラッと研究小説を書いて辛い過去も封じ込めてきました。苦手な対人関係の対策も考えてきました。自分の部屋を心地良いものにしていき、そこを守るべきだということも分かりました。短所や欠点や弱みではなくて、自分の長所や利点や強みを伸ばしてそこで勝負することに決めました。そして、自分が生きていく日常の時間の使い方も日々、見直しています。

もう大丈夫だと思います。外に出て問題があるかもしれませんが、致命傷になるようなダメージは回避できると思います。また、多少傷や怪我を負ったとしても、早く回復できると信じています。心配はありません。今までの戦略や作戦や対応策とともに、武器を持って部屋から出て外に立ち向かっていきましょう。

今の日常で、唯一と言っても良いと思いますが、欠けているものは、お金を得ることです。これだけが足りないのです。これを部屋の外に出て獲得するのです。これさえ掴んで今の日常の中に組み込んでしまえば、あとは誰も何も言ってきません。逆に言えば、これがないから、いつまでも非難、批判されてしまうとも言えるかもしれません。

お金を稼げば、周りは静まります。不思議なものです。今まで散々、滅多打ちにされていたのに、それがピタッと止みます。だから、社会の中で活動することが得意ではない者として色々とここまで対策を練ってきたのだから、もうさっさとお金を得る活動に乗り出して周囲を黙らせてしまえば良いだろうと思います。

 しかし、厄介なことに僕たちは、お金を得る仕事、労働が得意ではありません。社会経験も就労体験も十分ではありませんから当然と言えば当然なのかもしれませんが、上手ではありません。下手をすると、世間や社会のお金稼ぎの渦に巻き込まれてしまって、自分の日常の時間の大半をお金を得るという苦手で不得意なことばかりに費やしてしまうことにもなりかねません。

自分が生きていく時間ですから、自分が心地良く過ごせる時間をなるべく多く持つべきで、何も下手で苦手なことにたくさんの自分の時間を提供する必要はないと思っていても、そうなる可能性があります。そうやって賃金労働レースに飲み込まれてしまって、体も心も壊れて何もできなくなってしまうかもしれません。それほど危険なことでもあるだろうと思います。

お金があれば大概の問題は解決できると言われるぐらいですから、それほどの価値がお金にはあります。それを取りに行くわけですから、並大抵のことではありません。深手を負っても、はたまた死んでも意地でもお金を取りに行く人もいます。そんな中に入っていくことになるわけで、そんなものには関わりたくないとも思ってしまいますが、対人関係と同様に完全には避けて通れないものです。

生き延びていくためには、どうにかこうにかお金を得ないといけません。不得意で苦手で、しかも危険なことに手を出さないといけません。一日24時間の日常の中で、お金を得る時間を作り出す必要があります。そんな部屋の外に広がる不利なことばかりの賃金労働の場で、どういうふうにお金を獲得するかを次に考えてみたいと思います。

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