9.一生ずっと書き続ける
今、一生ずっと書き続けると決めてしまうことは、人生の最終目標を手に入れたことになるだろうと思います。どんな未来が待ち受けていようが、この書く行為がいつも日常の中にあります。どんなに辛く苦しい状況であっても、この行為を手放すことはありません。何年後、何十年後の未来のどこにでも、書き続けている自分がいます。変わっていく未来の中に、変わらないものとして、常に書いている自分がいます。肉体も頭の働きも衰え、思うようにならなくなったとしても、そこには今もよく知っている書く行為を続けている自分がいます。
お金を得る活動から退いてしまっても何もすることがないということもありません。常に何か書き続けています。紙と鉛筆さえあれば良いわけですから、お金がなくてもずっと続けていけます。人生の最終目標、死ぬまで続けていく行為を得た喜びしかそこにはありません。一生ずっと続けていく行為を手に入れたのです。生涯やり続けることがあるのです。
その不変な行為だけをどんな時でも守っていれば、その他のことがすべて変わっていっても大丈夫だと思えます。それさえずっと続けていけるならば、もうそれで人生を全うできるとも感じてきます。人生の最終目標とはそれほどのものなのだと思います。
一生ずっと続けていくことを見つけ出すには、自由に好きに使える時間が膨大に必要になってくるだろうと思いますが、その点では部屋に引きこもる世界有数の時間持ちで良かったと言えるかもしれません。空白のように広がる大量の時間の中に潜り込んでいくことで、人生の最終目標が浮かび上がってきました。これから続く日常の柱として、芯として、これをずっと持ち続ければ良いだけです。それさえ死守できれば、人生の最終目標なのですから問題ありません。
どんなにたくさんお金を稼ごうと、どんなに社会的成功を収めようと、いつかはその場から去ることになります。その時に他になにもやることがないとそこから探し始めるのは大変な労力がかかることだろうと思います。また、何かやることを見つけ出したとしても、それが生涯ずっと続けていくものであるかどうかも覚束ないだろうと思います。人生の最終目標のようにそれが支えとして、自分の核であり芯になり得るかは十分に時間をかけないと見えてこないだろうと考えています。その点から見ても、一度、社会から降りて無限に広がる何もないかのような時間に浸る経験は、引きこもって得られる利点の一つだと思います。
一人で居られるという最大の長所から始まり、日常の活動表、自分自身に関する資料作り、過去封じのカラッと研究小説、トライ&エラーの作成、そして未来を書くと、これだけ書くことに押し出されています。しかも、言葉を使うということを考えてみても、言葉を話すのは苦手ですから、この面からも書くことに向かうべきだろうと分かります。人生の最終目標として、これだけ強烈に押し出されているのですから、一生ずっと書き続ける、と決めてしまって大丈夫だと思います。
しかも書き続けることは、常に変わり行く未来の中の変わらない指標となるだけでなく、有効な現実対応策にもなっています。何か行動を起こす前に常に書く行為を挟むことで戦略や計画を練られます。書くことではっきりと現実と想像のズレを確認できます。だから、過酷で惨めな状況にある時こそ、書くことを手放してはいけないと思います。どんなに落ち込んで自暴自棄になったとしても、書き続けないといけません。書くことがそこから抜け出す武器であり、鍵なのです。人生の最終目標なのですから、そういう時にこそ力が発揮されると思います。
もう死ぬまで続けていくと決めたのですから、書く行為でお金や名誉や成功を得るとかそういうことは考えなくても良いと思います。そういうことと全く関係ないところで一生ずっと書き続けていきます。もし書く行為でお金や社会的地位を得ることを真剣に生真面目に目指してしまうと、それが得られないなら書くことをやめかねないので、人生の最終目標などには到底なりえません。自分以外の誰にも価値がないと自覚したうえで、それでも一生ずっと書き続けていくから良いのだと思います。それだからこそ、人生の最終目標に値するのだろうし、悲惨な状況での助けにもなるのだろうと考えています。生きていくその時々で目標なり目的なりを持つことも大切だと思いますが、そのような部分的なものではなくて全人生や全人格を貫くものを獲得できれば、たとえ周りがどんな状況になっても揺らがないのではないかと思います。動じずに一生書くという行為を命が果てるまで続けていけるのではないかと考えています。どんなに辛い経験をすることになっても、生き延びていけるのではないかと信じています。
また、この移り変わる日常の中で芯を得たことで、苦手で不得意な人と接することやお金を得る活動にもより容易に乗り出せるだろうと思います。一生書き続けていくという核を持っていますから、その他の行為はそれと比べればさほど重要ではないと感じてくるはずです。死ぬまで守らないといけないことが決まっていますから、それ以外のことは極端なことを言えば、どうでも良くなってくると思います。どうなろうが別にどうでも良いことですから、もっと気軽に楽な気持ちで取り組むことができるはずです。そのように肩の力が抜けたリラックスした状態で活動することで、苦手で不得意なことでも少しは上手くいくと思います。もう自分が生涯を懸けてやっていくことがありますから、そこに最大限の力を注ぐことになります。そうすると、それに気を取られて他のことは適当に流してやることになってしまいます。その流して適当にやるぐらいが、苦手で不得意なことに取り組む際にはほど良いのではないかと考えています。
また、自分の持てる力と時間を十分に可能なかぎり費やす行為が、お金が関わる活動の外に広がっている点も興味深いことです。どうしてもたくさんの労力と時間を使う活動を行なうと、その対価としてお金を少しでも得たくなってしまいます。そういう方向に進んでいってしまいます。でも、そちら側に向かう溝がはっきりと出来上がっていると分かっていても、お金が関与する場は苦手で不得意ですから近寄りません。あくまでも、大量の力と時間を投入して一銭にもならないことを続けていきます。それを一生ずっと続けていきます。
もうそうなると、誰でも彼でもできることではありません。一見すると、一生ずっと書き続けるというのは、お金もかからないですし、書く内容も問いませんし、それほど難しいことではないように感じます。でも、それをお金が介入しない場でやり続けるのは、困難を伴うことになります。
今、その行為でお金や成功を得ていなくても、いつか書いた物が認められたり、売れたりするのを考えること自体がお金が関与する場に引き寄せられていることになるわけですから、それすら思い願わずにただひたすら一生ずっと書き続けることができるのでしょうか。それができれば、実はかなり凄いことではないかと思います。お金や成功を得ようとして得られずに落ち込むということもなく、もうそんなものも越えて書き続けていくというわけです。
書く行為それ自体でもう充足してしまいます。もうそれだけで十分です。書き続けられれば、それで満足です。コップの水は満たされています。何年も何十年も書いていけば良いだけです。それで満たされた気持ちで日常を送られます。引きこもって酷く自分で自分を傷つけて、自分はまともに生きることさえできない駄目な奴だと思い続けていたのに、人生の最終目標を手に入れたことですでに満たされていたと気づかされます。自分のコップには穴が開いていてどんなに水を注いでも無意味だと思っていたはずなのに、実はそれは思い違いで、すでに水で溢れていたのだと思い知らされます。だから、それ以上のものを一生ずっと書き続けるという人生の最終目標に求める必要もありません。
しかし、潔癖症のようにヒステリックにお金が関与することを避ける必要もないと思います。目の敵のようにお金を嫌っても仕方がありません。もうすでに満たされているのですから、もっと穏やかにゆったりと構えていれば良いと思います。だから、もし書いた物でお金が手に入ったり、誰かに認めてもらえたりすれば、素直に喜んで、そして、またその場から離れてしまえば問題ないだろうと思います。ただ、お金を得たり、人に認められたりしたからと言って、前にも書きましたがそれを目的にしてしまうと、途中で書くことをやめてしまうことになりかねません。ですから、最終目標は、お金が得られなかろうと、人にとって全く価値がなかろうと、一生ずっと書き続ける、とすべきだと思います。そうでないと、自分の核であり芯である行為にならずにいつまでも満たされないと考えています。
満たされないことを原動力に書いていくのも良いようにも思いますが、それで死ぬまでずっと書き続けていけるのかよく分かりません。満たされているから、先に、前に、外に進めるように感じます。もっともっとといつまでも求め続けるのではなくて、もう自分のコップの水は満ちている、溢れていると思うことで、立ち向かう力が湧いてくるのではないかと思います。人生の最終目標ですから、そこから生き延びていく力も得られます。底力を与えてくれるものです。書き続けることで、その力を永遠に枯れることなく受け取れるのですから、さらにもっとと求める必要もなく、満ち溢れた存在となってしまうと思います。もうそれは喜びしかない状態かもしれません。日々、書けば書くだけ満ち足りて力が溢れかえってくるのならば、それはもう歓喜しかありません。だから、人生の歓喜に満ちた最終目標を手に入れたと言ってもいいのかもしれません。
また、それ以外にも書き続けていくその時々にも驚きや楽しみが色々と待っています。書いている最中に急に今まで思ってもいなかったアイデアや考えが飛び出してくることもあります。書く前まではまったくそんなことを考えてもいなかったのに、いきなりあるアイデアが浮かんできて不思議な気持ちになります。そして、その自分が考えついたのかどうかも定かではない発想を書き記していきます。物事を今までとは違う形で捉えている自分に自分自身が驚き、意外な発見をしたように感じます。そのような体験が訪れることは何も書いている最中だけではないと思いますが、書き残しておかないといずれは消えていってしまいます。
また、そのような経験以外にも書き進めていくうちに、書こうと頭の中で考えていたことから徐々に外れていき、自分でも思いもよらないことを書き出してしまうこともあると思います。書き始めると、次第にある流れがそこにできて、その波に乗ることで想定外のところに連れていかれてしまうのかもしれません。もうそうなると、自分が書いているのかどうかもよく分からなくなってきます。妙な感覚に包まれます。
思いや考えを文字を使って表現するというのは不思議な行為なのだと思います。言葉や文字は自分一人だけのものではなくて何か借りもののようで、その借りたもので自分の感情や考えを表してみようとすることは魅惑的な作業だと感じます。しかも、それを長くずっと続けていくことで、より魅力的なものになっていくように思います。
書くという行為について考え始めてみるだけでも妙な気持ちになってきます。伝達方法の一つとして書くことを利用してみても、書き手の意図するところを越えて読み手は各々にそれぞれの文脈を持ってそれを読み取っていきます。何かを書くと、そこには書かれたこと以上のものが広がってしまうようです。また、誰がどこでいつ誰に向けて書いたかなどという書く側の状況や時代背景を抜きにしては、そこに書かれたことをよく理解することができません。たとえ書かれた文字がそこにあったとしても、それから広がっていく書かれたものの先を追っていく必要があります。
その行く先はどこまでもどこまでも果てしなく無限のように広がっていって、いつまで経っても掴めないものかもしれません。でも、掴めないからこそ、一生ずっと書き続けていけるのだろうとも思います。終わりがないからやり続けることができます。完成しないからずっと続けられます。逆に言うと、終わらせてしまうから、完成させてしまうから、途中でやめてしまうのかもしれません。終わりがない、果てがないということが、ある種の力を与えてくれます。終わりが見えない、ゴールに到達できない、そのことが喜びになります。有限の中に無限を見る行為のようにも感じます。一生書き続けるという終わりのない行為は、このような不思議な広がりをずっと感じることができるものだと思います。
また、書く行為には、自分が前に書いたものを読み返す楽しみもあります。何年も何十年も前に書いたものをいつでも読み返せます。書いている内容は同じであるはずなのに、いつどこでどういう状況で読み返すかで、全く違った印象を持ってしまうこともあります。書かれている内容のどこに目を向けるかも読み返す時の状況によって異なってきます。以前、読み返した時には何とも思わなかったところが今回は妙に気になり、どうして前は何も感じず、今はこんなに注目してしまうのだろうと不思議に思えてきます。
そうなると、そこに書かれている内容も不動で不変なものでは決してなくて常に揺れ動いているように感じてきます。定まった固有の確固としたものなど一切存在せず、すべてのものはいつでもどこでも揺れ動いているのではないかと思えてきます。自分が書いた文章を読み返すだけでも、その揺れを感じられます。実は揺れ動いているのに実体のある動かないもののように思い込んでしまっているだけかもしれません。自分が書いたものでも意味がその都度ころころと変わって異なる存在として立ち現れてきてしまうのですから、ひょっとして実体があるものは本当は存在せず、すべては揺れ動いているのではないかとも感じてきます。
また、他人が書いたものを読むのではなくて自分で自分のために書いたものを読み返してみることは、より一層不思議な感じになってきます。自分で書いた文章を何年、何十年後に改めて読むことは興味深い行為ではないかと思います。そんなことを考えていたことなど今は完全に忘れてしまった自分が、昔の幾つもの自分に出会います。自分だと思っていたものが実はあやふやなものでしかなく確固とした存在ではないと自分が書いた物を読み返すことで分かってきます。確かに自分が書いたと分かり切っているのに、自分が書いたようにはどうしても思えない不思議な感覚に襲われることもあります。自分が書いた文章も自分自身も何もかもすべて固まったある一定の意味などなく、揺れ動いているように見えてきます。変わる、揺れるしかないように思えてきます。
だから、一生ずっと書き続けるという人生の最終目標の中で、自分が書いた文章を読み返す行為もその都度行なうようにすれば良いと思います。一生書き続けるという不動で不変な行為の中身は、実はすべて揺れて変わり続けています。それを味わうためにも読み返せるように書いたものはすべてどこかに大切に保存しておけば良いと思います。どんなものでも捨てずに手元に置いておきます。今の自分にとっては何の意味もないと感じるかもしれませんが、何年後かの自分にはとても大切なものになっているかもしれません。その都度、価値付けや意味付けは変わってしまいますので、すべては揺れ動くと考えてどんなものでも残しておいて損はないと思います。
小学校や中学校の文集に書かれた自分の文章を読むだけでも不思議な気持ちになってくるのですから、これから生涯どんどん書き溜めて読み返す喜びをいつでも得られる状態にしておくべきです。もうそうなると、自分で書いて自分で読み返すという無限ループの中に入っていけます。その時々の自分が色々なことを書き連ねて、そして、様々な自分が色々と意味付けしながら読み返していきます。この輪が広がったり、縮まったりしながら、その中で書いて読む営みをぐるぐると永遠に繰り返し続けます。そこには意外な発見や驚きや楽しみや喜びが満ち溢れているはずです。これほど素晴らしい、しかも一生続けていける行為が、紙と鉛筆さえあれば手に入るのですから、やらないわけにはいかないだろうと思います。
また、一生ずっと書き続けるということは、当たり前ですが、日常の中で日々、書き続けていくということです。一か月休みなく書いて、その後、一か月ずっと書かないというのではなくて、毎日できる限り書いていきます。日常の一日24時間の中にいつも書く行為が存在しているということです。
食事や睡眠のように書くことが日常の不可欠な要素としてあります。しかも、これからずっと生涯、自分の日常の中にあります。書く行為が常に存在している未来を死んでいくまで歩んでいきます。となると、一日24時間のどこかで今まさに書いているこの行為が、そのまま何年後、何十年後、そして、死の間際まで続いていきます。今ここで書いていますが、それは永遠と続く営みであり、現在の時空間を越えたものです。時間も空間も今ここにあるのにここではないような感覚になってきます。そして、日常に書く行為が存在していること自体が、何か奇跡のようにも感じてきます。一生書き続けると決めることで、日常の書く行為が輝いて見えてきます。そんな時間と空間が日常の一日24時間の中に入ってきます。
書いている間は日常の他の時空間とは違うものが流れています。その時だけは別の流れの中に浸ることができます。人生の最終目標として書く作業を日々行なうことは、極端な言い方をすれば、日常の中に非日常性を持ち込むようなものです。書くことでハレの非日常性に触れて、またケの日常に戻ってきます。その行き来を一日の中で毎日、感じられます。だから、書く行為を日常の一日24時間の中でどこに持ってくるかも色々と試してみるべきだと思います。どの時間帯にどのような空間で非日常としての書く作業を行ない、今と繋がっているが今ではない不思議な時空間を味わうかは、日常の他の活動にも影響を与えてくると思います。
書く行為の前後では、日常的な物事や作業が違って見えてくるかもしれません。奇跡のような時空間を経ると、その何の代わり映えもしないはずの日常がそこにそのように存在していること自体が信じられないような感覚になってくるのかもしれません。ただ書くのではなくて、生涯書き続けるという視点を取ることでそのように日常を見てしまうようになるのだろうと思っています。
一生ずっと続けていく行為として日々、書くことを日常に組み込むことで、日常が変わってきます。生活が変わってきます。俗なる時間の中に聖なる時間が存在する信仰者のような不思議な感覚に包まれます。信仰者が日常の活動をすべて一旦、忘れて祈りを捧げるような時間が訪れます。一日の時間が、何の変哲もない平坦なものではなくなり、俗と聖、ケとハレのように濃淡のあるものになってきます。
そして、その貴重な行為を毎日繰り返せる喜びがあります。飽きもせずに毎日、毎日、同じ行為を繰り返すことが、または、繰り返せることが、生き延びていくうえでの糧になってくるように感じます。明日も明後日も同じように一つの行為を繰り返せる喜びというのがあるのではないかと思っています。明日も今日と同じ行為を行なえる、しかもそれをずっと死ぬまで続けていけると思えた時に沸き起こる感情があるはずです。
その繰り返しの喜びをずっと書き続けることで味わえるのではないかと思っています。同じ行為を繰り返すという一見すると退屈に感じるものの中に至高の楽しみや喜びが隠されているのかもしれません。それは、毎日、繰り返していく中で、それを永遠に続けていく中で、感じられるものではないかと思っています。
また、明日も今日と同じ行為を行なえることが、喜びであり、また、日々の日常に安心を与えてくれるだろうと思います。明日がどういう日になろうともこの行為だけはやるという核があることが、不安定で揺れ動く日常を何とか支えてくれるように思います。繰り返せると思えることが、生きる活力になってきます。曖昧模糊とした日常に現実感を与えてくれます。
引きこもってずっと一人で居ると、全く単調な日常になり、また明日も今日と何の変わりもない同じ日ではないか、それならどうして明日も生きないといけないのか、などと日常の現実感が薄れていくことがあるかと思います。明日も今日と同じ日が繰り返されるということが、喜びや日常の支えとして機能せずに、むしろその退屈さに嫌気がさしてきてしまいます。そのようになってしまうのは、その日常の時空間に濃淡が一切なく全く平板なものになってしまっているからだろうと想像します。俗なる時間と聖なる時間、日常と非日常、一瞬と永遠などという様々な時空間を日常の中に仕込めていないからだろうと思います。
もし仮に今日と全く同じ明日を過ごすことができれば、そのことのほうが奇跡です。全く何も一切変わらない同じ日などというものは、引きこもってずっと部屋にいるだけであったとしても体験しようにもできません。それなのに同じだと思って退屈さを感じてしまう自分の現実の捉え方のほうを疑ってみるべきだと思います。毎日、同じように太陽が東から昇り、西に沈んでいくことのほうが奇跡ではないでしょうか。毎日、毎日、相も変わらず飽きもせずに日が昇って沈んでいきます。その同じような日々が繰り返されることのほうが驚きです。どうしていつもいつも同じように季節は巡っていくのでしょうか。春が来て、夏になって、秋が過ぎて、冬になる、というその繰り返しのほうが信じらないことのように感じます。その繰り返しの奇跡を感じるためにも一生書き続けるという人生の最終目標のもと、日々、書く行為を続けていくのはとても興味深いことだと思います。
また、書くことを毎日、繰り返しますが、当然、書いている内容はその時々で違いますし、書いている最中に何か発見や気づきが急に訪れることもありますし、日々、新鮮な気持ちで書く行為に向かえると思っています。一日の活動表や計画表を書き記すのと自分自身に関する資料作りでは、同じ書く作業であっても時間や頭の使い方が異なってきます。カラッと研究小説や未来を書く時も流れている時間や考えていることが違ってきます。また、内容だけでなく書く時間帯や場所や文房具によっても変化があります。パソコンと手書きではかなり違う感覚を味わえると思います。
だから、同じ書く行為の中でも色々と試してみる楽しみがあります。悩みそうになったり、落ち込みそうになったり、嫌な気持ちになりそうになったりした際の自分なりの対応策を書いていくのも面白いと思います。たとえば、そういうネガティブな感情に陥りそうになったら、直ちにお風呂に入って体も心もお湯で温めてほぐすと決めておいて、実験してみます。または、外に出て太陽の光りに当たり、できるだけ自然に触れることにして、実際に試してみます。いつ、どこで、どんな悩みや不安に急に襲われるか分かりませんから、しっかりと対応策を書いて実験して、最も有効な自分なりの方法を手に入れておくべきだと思います。ここでも誰か他人が書いたものを読んでそれをそのまま採用するのではなくて、自分で自分のためだけに書いて試して獲得するようにします。
そうしないと、心の底からは納得できないと思います。たとえ自分で自分のためだけに探し出した方法が他の誰かと同じであっても問題はありませんが、自分で考えて動いて見つけ出すことが重要だと思います。出来上がったマニュアルに沿って行なえば間違えはないのかもしれませんが、それでは面白みがそがれてしまいます。自分の日常のためですから、自分で考えついたことを勝手に選び取って実行しても何の問題もありませんし、そうすべきだと思います。
そして、毎日、書き続けてもう何も書くことがなくなってしまったらどうするのか、という心配も必要ありません。一生書き続けていくと決めているのに、書くことが全くなくなってしまったら困ると思ってしまいがちですが、そんなことはなくて、ただ待てば良いだけです。ずっと書くことが思い浮かぶまで待ち続けます。
ですから、書くことが何もなくても、書く行為のための時間は常に確保しておきます。日常の中のその数時間は、何も書くことがなくても紙やパソコンの前で待ちます。その時間は、書くためのものですから、その空白を別の作業や行為で埋めることもなくひたすらじっとしています。時間は死ぬほどあるのですから、全く気にしません。何時間も何日も、果ては何ヶ月も何年も、ずっと書くことが出てくるまで待ち続ける時間を過ごします。
積み重なった巨大な時間の集まりや塊りは、何百年も生きているという、それだけで圧倒してくる老木のようにこちらに迫ってきます。それだけ膨大な時間を待つことだけに使い続けると一体、何が出てくるのでしょうか。興味深く、実験してみる価値がある行為のように思います。ずっと待ち続けて、ある日、急に物凄い勢いで書き始めたりしてしまうのでしょうか。もちろん、当然、その内容は自分でも予測がつかないとんでもないものであるはずです。そうであるならば、ノートやパソコンの前に座っているだけでも何だか楽しくなってきます。一体、どんなことを書くことになるのか、何がやって来るのか、とソワソワとじっと待つわけです。
どんな人であろうと、毎日、毎日、ずっと書く時間を設けてひたすら待ち続ければ、何年、または何十年かのちに、勘違いかもしれませんが、絶対に何か書くことが訪れると信じています。そして、それをひたすら何年、何十年にもわたって書き記していきます。もうそれは自分の言葉などというものではもはやなくて、そんなものを越えてしまった何かであるのかもしれません。自分の言葉ではないものを自分自身を媒介にして形にするということがもしできるならば、それはそれで生きてきた甲斐もあったと感じるかもしれません。
そんなことを空想し始めると、毎日、飽きもせずに書く行為を続けているのも、ひょっとしたら何年も何十年もじっと待ち続けて急に何か書くことが訪れたその際に、その言葉を一言も書き洩らさないために今はトレーニングを積んでいるのではないかとも思えてきます。その突然の訪れを待ちながら、それを生きがいに一生ひたすら書き続けていくのもまた興味深いことだと考えています。
もうこうなると、何も書くことがなくなってもそれも楽しみの一つになってしまいます。あとは、一生ずっと書き続けることを人生の最終目標として突き進んでいくだけです。自分で自分に偽っても仕方がありません。自分自身に対して本音を隠してもしょうがありません。本当は自分でよく分かっているのに見ないふりをしても意味がありません。偽って、隠して、顔を背けて、それで上手くいけば良いですが、いつか限界に達してしまいます。無理はたたります。何も他人に大声で伝える必要は全くありませんが、少なくとも自分自身に対しては本当のことを認めて語るべきだと思います。
自分がいかに弱くて脆くて狡くて情けない者であるかを自分に向かって書き続けていくその中で、どうそんな自分でも生き延びていけるかのアイデアやヒントが浮かんでくると信じています。今まで散々、何年も何十年も自分で自分を痛め続けてきました。もう自分を許してあげてください。周りの環境もすべて自分のせいではありませんが、仕方ありません。どうすることもできません。周りの人も許してあげてください。できないものはできないのです。どんなに頑張っても人の足元にも及ばないこともあります。仕方がありません。諦めてしまいます。そこにこだわり続けても暗く落ち込んでしまうだけです。起きたことは起きたことですし、変えられないこともたくさんあります。自分の意思だけではどうすることもできないこともたくさんあります。もう仕方がないことです。
すべてを諦めて、譲って、何もなくなって、しかし、そこには一生書き続けるという人生の最終目標がしっかりと不変の柱として立っています。どんなことがあってもびくともしない強くしなやかな柱です。それがあるのですから、もう大丈夫です。お金も地位も名誉も成功も何もありませんが、満ち足りています。コップの水は溢れかえっています。だから、何の心配もありません。もうすでに満ち溢れていたのです。それに気づけたのです。何も手に入れずに、満ち足りた存在になれたのです。もう十分です。これでこれから何とかやっていけますよ。何の根拠も全くありませんが、確信だけが溢れかえっています。その満ち溢れた確信を胸に命が果てるまで書き続けていきましょう。
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