3-1.引きこもり当事者カラッと研究小説 パート1
穏やかに落ち着いた心持ちになって、さて何をするか、ということですが、ネガティブな感情や記憶を封じ込めるために自分の過去に関する物語を書くのが良いのではないかと思います。日々、悩み苦しむだけの死に時間は、自分自身についての資料作りの時間に変えていっていますが、その溜まっていく資料には当然、膨大な自分に関する情報が書き込まれています。自分の心の癖や習慣や傾向だけでなく、どんなことで落ち込んで暗く沈んだ気持ちになるかなども具体的な出来事とともに大量に書き記されていると思います。
この資料は、自分自身の言動のパターンや感情の動きを掴むために日々、読み込んで利用することを目指していますが、せっかくこれほど多くの自己情報が集まってきていますので、それをもとに自分自身に関する過去の物語を一つ書いてみれば良いだろうと考えています。手元にある資料には、引きこもる要因になった過去の苦い記憶、現在の生活の苛立ちや焦り、未来の不安などが書き記されていると思います。そこの過去の部分を取り出して物語として封じ込める、けりをつける作業に心穏やかに挑んでみてはどうかと考えています。
部屋に引きこもる生活を続けていると、どうしても辛い過去の記憶や苦い昔の思い出が頭に浮かんできて苦しめられることがあると思います。それを資料作りとして書き出して、漠然としたものではなくて具体的な出来事として捉えようとしていますが、それでもしばしば過去に悩まされます。この過去という古傷に過剰に痛めつけられないために、資料として書き出している過去の個別の出来事を一つにまとめて物語に仕立て上げれば良いのではないかと考えています。過去をまるまる一つの物語の中に放り込んでしまえば良いのではないかと思っています。
資料作りの段階で、思い出したくもないのに頻繁にどうしても思い出してしまう嫌な過去を具体的に掴んでいく作業を行っていますので、そうやって得た散々な過去のそれぞれの記憶のパーツを組み合わせるようにして一つの物語にしていくということです。惨めな思いを今でも引き起こす過去に関する一つの大きな物語が出来上がれば、その中にもう見たくない過去は存在することになり、ある種、昔の痛ましい出来事との区切りや決別ができるのではないかと感じています。過去保管ボックスのような物語が出来れば、今までのように昔の出来事に度々苛まれることもなくなってくるのではないかと考えています。過去は物語という一つのファイルの中に収まることになり、てんでばらばらにいきなり襲ってくることもなくなってくるだろうと思います。あのファイルを開けると過去と出会う、という状態、逆に言うと、あのファイルを開けないと過去とは出会わない、という感じになれれば良いのではないかと思います。痛々しく悲惨な自分の記憶を無理に消し去ろうとするのではなくて、ある一角に閉じ込めるということです。強引に嫌な思い出を消そうとしても、そうすればそうするほど、辛い記憶が蘇ってきてしまいます。どんどんと後から後から溢れ出てきてしまって、どうしたらよいのか途方に暮れて手の付けようがなくなることもあると思います。ですので、消す、という方向ではなくて、書いて封じ込める、という対処法を試してみようということです。
やはり、頭の中ではっきりとしないままいくら思い悩んだとしても、文字としてそれを残しておかないといずれは疲れて表層から消えて忘れてしまい、そして、またしばらくして頭に浮かんできて悩み苦しむことを繰り返してしまうだけだろうと思います。だからこそ、痛みを今も感じる自分の古い記憶を物語として書き記すことが、執拗に襲ってくる過去対策として有効ではないかと考えています。そのため、自分の辛い過去を見つめる作業になってきますので、先ずは心の準備として穏やかな心持ちで居られることが大切になってくるというわけです。
どうしても忘れられない嫌な記憶に対して、以前とは異なる゛物語にして封じ込める゛という方法を試してみますので、その結果も今までとは違ったものになるだろうと思っています。要は、過去にけりをつけるための実験です。心穏やかに今も自分に襲い掛かってくる苦い思い出や記憶と対峙して、物語を書いて封じ込めてみようとしてみます。
そのように考えていますが、自分自身の過去の物語を文字ではなくて絵や音楽などで表現してみても良いのかもしれません。しかし、すでに自分自身についての資料作りとして書く作業を日々、続けていますので、それを利用して物語を書き記したほうが楽だとは思います。しかも、楽器や絵画などになると、基本的なベースとなる技術の習得が新たに必要にもなってきそうです。それに比べて物を書くことの基本的な技術は、すでに誰もが獲得してしまっているだろうと思います。ですから、退屈になりがちな基礎を学ぶ反復練習をする必要もなく、すぐに物語を書き始められます。その面でも書くほうが楽で良いと考えています。今からわざわざ新たな技術を一から身につけなくても、すでに持っているスキルである程度、対応できるわけですから、これを試さない手はないと思っています。さらに、利用する空間や必要な道具類などを考えてみても、書くことのほうが気軽に始められると思います。ですので、絵や音楽などに特別な思いがないのであれば、文字を使って自分の過去の物語を表現してみるのが良いのではないかと考えています。
あと、書くことは紙とペンがあればできますが、物語を毎日、書き続けるとなるとパソコンがあれば便利だとは思います。パソコンだと、もし漢字が分からなくても自動的に変換してくれますし、紙に鉛筆で書いていくよりは手も疲れないだろうと思います。また、文章の修正も保存も簡単ですから、パソコンで物語を書いていくほうが様々なプラス面があると思います。
しかし、今、もしパソコンを持っていない場合は、先ずはノートと鉛筆で試してみれば良いと思います。紙と鉛筆でしばらくの間、自分の過去の物語を書き進めてみて、このまま続けていけそうだと思えば、その時にパソコンの購入を考えてみても良いと思います。お金がかかりますが、将来することになるかもしれない労働にも役立つだろうということで手に入れてもいいかもしれません。それでも、今までにほとんどパソコンを使ったことがないようなら、書く作業の前にパソコンの操作を覚えるという新たな技術の習得が必要になってきますので購入しないほうが無難かもしれません。要は、自分が最も楽に書き始められる方法で試してみます。
また、物語を書く、と言うと急にハードルが高くなったように感じるかもしれませんが、書く目的は自分自身を今も苦しめる過去の辛い記憶を封じ込めることですから、上手、下手を気にすることも気負う必要も全くありません。今は、物を書くのではなくて読む、絵を描くのではなくて観る、音楽を奏でるのではなくて聞く、という受け身の態度を、とくに大人になればなるほど物凄く執拗に推奨されているようにも感じますが、そんなことは気にせずに、何歳であっても、たとえ引きこもりであっても、もっと能動的に好き勝手にやって良いものだと思っています。特に僕たち引きこもりは、多くの自由時間を手にしていますから、思う存分、書くことに使ってみたら良いと考えています。
でも、ここにもまた別の厄介なことが待ち受けています。そうやって自分でも何か作ってみようとすると、すぐさま教室とか資格とかハウツー本とかが用意されていて、物語の書き方はこうだ、絵の描き方はこうだ、楽器の使い方はこうだ、となかなか好きにはやらせてもらえないようになっているようです。しかし、そんなものも全く気にしません。何も人から称賛されたり、お金持ちになったりするために、物語を書こうとしているわけではありません。自分の過去の物語が、どんなに他の人にとって無価値であろうと、お金に一切ならなかろうと何の問題もありません。しばしば悩まされる自分の過去の苦い記憶を捉まえて一つの場に留めるために物語を書きますので、人の評価とかお金とかそんなものが関係しないところでの活動になります。
ですので、ハウツー本とかマニュアルとか気にせずに、本当に気軽に自分自身の過去の物語を書き始めてみます。他人に向けてではなくて、自分自身のために書きます。悩みの種である過去の辛い記憶に立ち向かう実験です。そこのところを忘れてしまって、世の中に流布している小説のような物語を書かないといけないとは思わないように常に気をつけます。どんなに拙い物語に思えても、それで忌まわしい過去をその中に閉じ込めておけると思えるならば、それで問題ありません。過去保管ボックスとしての物語ができて、今よりも昔のことで悩み苦しまなくなるのであれば、それでその物語作りは大成功です。万々歳です。その他は些末なことでしかありません。
では、自分の過去に関する物語を作り始めてみます。それで、先ず苦い記憶が詰まった自分の過去を書くような物語群を『引きこもり当事者カラッと研究小説』(以下、カラッと研究小説と記します)と名付けてみました。当事者研究という゛病゛を持つ当事者が自分自身を研究するように、引きこもり当事者が自己を研究材料としてフィクションを書くということです。どうしても、小説を書く、というような態度で挑んでしまうと、力んでしまって何をどういうふうに書けばいいのかと悩んでしまうことにもなりかねませんので、小説というよりも、自己研究として書く、と思ったほうが良いだろうと考えています。
そして、自己研究と言っても、あまり真剣に考え過ぎずに子どもの頃の夏休みの自由研究ではないですが、そんな感じで楽しく面白く取り組むために、ここにさらに、カラッと、という言葉を付け加えてみました。このカラッと、を常に意識することで深刻さや生真面目さや陰湿さを回避しようとしています。
辛い過去を物語として描くとしても、ネチネチとジメジメと気が滅入ってくるような感じで書き続けてしまうと、すぐに物語を離れた日常でもそのネガティブな感情に引きずられてしまいかねないと思います。ですから、常に心穏やかに居るためにも、カラッとした心持ちで自分の過去の物語を書き続けていくことがかなり重要だと考えています。
今でも時折、心が痛む過去の物語を書いていきますが、それはあくまでも過去対処法の一つとして試しているだけですので、それで酷く落ち込んだ気持ちになってしまっては意味がありません。何も暗く沈んだ気分になるために書いているわけではありません。ただでさえ、辛く目を向けたくもないような自分の過去や引きこもり体験を書くことになりますから、カラッと、サラっと、清涼さや明るさや朗らかさを忘れずに書くように心掛けます。
このカラッとした気分で書き続けるためにも自分の部屋を心地良い空間に変えていっている面もあります。概ね、今、自分が引きこもっている部屋で物語を書いていくことになると思いますが、その書く空間が居心地の良い場であれば、それが自分の気分にも影響してカラッと自分の過去の記憶を見つめやすくなるだろうと考えています。だから、実際に書く内容というよりも先ず書く場所に目を向けて、物語を書く環境を整えていきます。
もうすでに自分の部屋を心地良いものにするために手を加えていっていますので、カラッと、サラッと書くための空間としてさらなる大胆な模様替えなどは必要ないだろうと思います。自分の部屋を見渡してみて、ゆったりと落ち着いた気持ちで物が書けそうな環境になっているかチェックしてみます。ノートと鉛筆、またはパソコンを置いて書く作業をしていくことになる重要な机やテーブルはどんな感じでしょうか。気持ち良い空間の広がりになっているでしょうか。もしそう感じないようでしたら、窓のそばに移動させてみても良いかもしれませんし、机やテーブルの上を何もない状態にしてそこにパソコンやノートと鉛筆だけを置いてみても良いかもしれません。また、机や椅子の高さを微調整してみたり、照明の位置を少し変えてみたりと、本当に自分にとって心地良いリラックスできる空間を作り出して、その中でカラッと自分の過去の物語を書いてみます。
カラッと研究小説は、生真面目にならずに朗らかに軽くサラッと書いていくことを信条としていますので、このように書く内容よりも書く環境のほうをより重視しています。自分の過去の物語を日々、書いていけるかどうかも、いかに書き続けていけるような環境を自分の周りに作れるかという視点から先ずは考えてみます。ですから、実際に書いてみた後に見直すのも、書いた内容よりも書いた環境ということになります。一日書いてみて、カラッと、サラッと、心地良く書き続けていける場に本当になっているだろうかと部屋や机の上をチェックしてみます。そして、変えたほうが良いと思うところに手を加えて、また明日、書いて試してみるということです。それを繰り返して、自分にとって理想的な書く環境を作り上げることを目指します。その環境さえ手に入れば、物語のほうは自然に書き続けることができるだろうと考えます。
ですから、書く環境を調整してより良いものにするためにも毎日、物語を書いていきます。これでまた新たな物語作りという時間の使い方が日常に加わりました。でも、毎日、書いていくわけですから、一日中、朝から晩までひたすらずっと書くというような詰め込み方式は採用しません。無理をしてしまうと書くこと自体を途中で放棄してしまい、過去対策としての物語作りの効果も結局、分からずじまいになってしまいかねません。別に締め切りがあるわけでもないですし、急いで書き終わらせないといけないほど時間がないわけでは全くないですし、毎日、少しずつ焦らず書き進めていけば良いと思います。
また、一日24時間のどこにこの自分に関する物語を書く時間を割り当てるかは、人それぞれだと思いますが、書く時間帯を色々と入れ替えてみて、自分にとって最も好ましい物語を書く時間を探ってみるのも興味深いことだと考えています。ここでも書く内容ではなくて、書く時間帯のほうを意識してみます。朝日を浴びながら、昼下がりに小鳥の鳴き声を聞きながら、静まり返った夜空を眺めながら、など色々とシチュエーションと時間を変えて試してみれば良いと思います。
カラッと研究小説とはこのような感じで書き進めていこうとしますが、ここで少し近似ジャンルとの違いを見てみたいと思います。自分のために、今も心を苦しめる過去を閉じ込めるために物語を綴るという特徴がカラッと研究小説にはありますが、実際のところ私小説や自伝小説などとどこがどう違うのだ、と思われているかもしれません。
先ず、自伝小説ですが、これは概ね社会的成功者や破天荒な人生を送られた方が、自らの人生を振り返って、多少は自慢げに、ある種の価値がある生き方だと信じて書いているように思えます。これは、カラッと研究小説とは随分と違います。社会的成功なんて全く関係ありませんし、ハチャメチャで豪快な人生を送っているわけでもないですし、基本的に大人しく部屋に引きこもっていますから、そんな壮大で騒々しいものでは全くありません。
また、私小説という己の人生や生活を微に入り細をうがって抉るように描くこともカラっと研究小説は目指していません。それほどの深刻さや生真面目さや価値を持ち合わせていません。もっと軽くサラッと、カラッとしたものですので、畏れ多くて文学を標榜することなどできません。大体、そういうものを目指してしまうとすぐに力が入ってしまって書けなくなって、部屋に引きこもることで得られるせっかくの膨大な時間をまた悩み苦しむことだけに費やしてしまうはめにもなりかねません。これは、本当に残念なことだと思います。
あと、赤裸々に当事者が自分自身の辛くて過酷な過去をフィクションとして物語る形式のものもあると思いますが、僕たちのカラッと研究小説は、もっと、もっと、カラッと、サラッと、スカッと、軽さに重点を置いています。限りなく湿り気ゼロ、を目指しています。
ですから、全くもって他人にとって価値あるものだなどと思ってもいません。人にとっては、極端な言い方をすれば、ガラクタか、ゴミ同然のものだろうと自覚しています。実際のゴミ屋敷ではありませんが、他人にとっては、こんな要らないものさっさと捨てろよ、と思われかねないものを自分のために書き続けます。しかも、意固地にならず、カラッとした心持ちで書き続けます。
全く他人にとって何の価値もなくて申し訳なくなってきますが、書く、ではなくて、書き続ける、にまた別のポイントがあります。そうなのです。カラッと研究小説は一作書いて終わりではありません。永遠に命が続く限り書き続けることを目指します。カラッと、サラッと、あくまでも軽く死ぬまで書き続けるというのが、このカラッと研究小説の近似ジャンルとは大きく異なる特徴です。この永遠に書き続けるということこそが、最大の目的だと言っても過言ではありません。
将来の目標や目的をリアルに臨場感溢れるようにしっかりと思い描くことこそが重要だと自己啓発書などにはよく書かれていますが、それに倣うとカラッと研究小説は死ぬ間際の自分が病床でも書き続けている姿をまじまじと想像できるかどうかが重要になります。そこさえ、はっきりと見定めることができれば、後はもう心配ない、大丈夫だ、と言っても良いほどです。
実際、一作書いただけでは足りないだろうと思います。一つの物語だけでは辛い過去の記憶の再生を食い止めきれないだろうと感じています。一個の過去保管ボックスでは間に合わないだろうと思います。すぐに一杯になってしまって、また暗い思い出が溢れ出してきそうです。ですから、もうそういうことであるならば、この際、命が続く限り書き続けると決めてしまったほうが良いように思います。そう予めセットしておいたほうが、落ち着いた気持ちで居られると思います。死ぬまで何個でも過去保管ボックスを作り続けられるのですから、気分もだいぶ楽になります。
また、もし一作書いた後にまた心を痛める過去に襲われてしまった時に、その一作で終わりと決めてしまっていると、この物語作りは過去対策として完全に失敗したと思うかもしれません。そして、引きこもっている部屋で一人、また無駄で意味がないことをしてしまったと感じて、自分で自分を責めて悩み落ち込むことになる可能性があります。それは避けないといけません。暗い気持ちになってしまっては元も子もありません。だから、制限を設けないほうが得策だと思います。限りがないのですから、一作後にまた過去に強襲されても、それを資料作りとして書き残して次回作に活かそうという気にもなってくるだろうと思います。
しかし、そうなれば、変な話し、過去に襲われたいという思いが出てくるかもしれません。次を書くためのアイデアとして辛い記憶を欲してしまうかもしれません。でも、そこも人にとっては価値がない、と思いながら書き続けますので、変なプレッシャーを自分で自分にかけてしまう心配もないだろうと考えています。しかも、一生ずっと書き続けるとなると、別に自分の過去の物語を書くことだけにこだわらなくても良くて、もっともっと広く何でも好き勝手に自由に書き続けられるのではないかと思っています。
しかも、これから永遠に書き続けていくとなると、言うなれば、自分が死ぬまでの時間との闘いのようにも思えてきます。どんなに人にとって無価値なものであろうとも、永遠に書き続けるのはかなりの困難を有する挑戦になるだろうと思っています。考えてみれば、たとえどんなに有名な作家であっても、途中で筆を折ってしまうことがあるぐらいです。また、物書きとして食べていけないからと書くことをやめてしまうこともあります。
ですから、死ぬまでお金も貰わず自分以外の誰にも価値がないものを書き続けるという行為は、もうそれ自体で逆説的ですが価値あることのようにも思えてきます。人にとって意味がないと自覚しつつ、ということは他者からの評価も全くないまま、永遠に書き続けるということです。普通に考えると、難しそうです。何をやっているのだろう、と悩んでしまって途中でやめてしまいそうです。それを、もう人知れずの偉業と言ってしまいますが、僕たち世界有数の時間持ちである引きこもりが、ここは一つ、やり遂げて見せようではないか、ということです。過去を封じ込めるという話しから、いきなり大きな話題に飛んでしまいましたが、最終的には一生書き続けていくと決めてしまえば良いだろうと思っています。そうなると、死ぬまでに自分のために一体何作書いていくことになるのだろうかと想像してみたくもなりますが、先ずは、第一作目のカラッと研究小説をどうするかを少し見てみたいと思います。
第一作目は、過去対策として自分の辛くて痛ましい過去の記憶をもとに物語を書いてみれば良いのではないかと考えています。日々の資料作りで、もうすでに過ぎ去ってしまったことなのに今も悩まされる過去の記憶や思い出に関する記述も集まってきています。それを参照しながら組み合わせるように自分の過去についてのフィクションを一つ作り上げてみれば良いだろうと思います。材料はすでに用意されており、それを自由に好きに気の向くままに構成して物語を作っていくことになりますので、何もないところから書き始めるよりは遥かに楽だと考えています。
また、何よりもまずカラッと研究小説は、何をどんなストーリーでどういうふうに書くか、などという物語に関することよりも書く環境を重視している点を忘れないようにします。書く内容よりも書く場所に十分に注意を向けて、しかも自分自身のために書いていきますので、物語そのものの出来などは気にする必要はありません。生真面目に悩みすぎずに気軽に試しに書いてみたら良いだろうと思います。重たくならないように、軽く、カラッと書いてみます。
実際にこれから書き始めてみることになりますが、基本的にカラッと研究小説の主人公は自分自身になります。それを一人称で書いていくよりも、自己研究として少し距離を取って自分自身や自分の過去を見つめるためにも三人称形式で書いていったほうが良いのではないかと思っています。一人称ですと、ひたすら自分の悩みや苦しみを書き続けることに徹してしまって、日々の資料作りとなんら変わらないものになってしまう可能性もあるかもしれません。物語ではなくて日記になってしまうことを回避するためにも三人称のほうが良いのではないかと考えています。
また、自分の過去をフィクションにすることで、つまり、表面上は架空の物語とすることで、散々な自分の過去や引きこもり体験を書くとしてもひどく落ち込んだ気持ちにならずに、ある意味、他人事のように書いていけるのではないかと思っています。さらに、作り話だと前置きしておくことで、より自分自身の惨めな思い出や記憶にも向き合って書いていくことができるのではないかと考えています。自分の頭の中にある過去の記憶の現実感や臨場感をある種、人ごとのように探っていくアプローチは、今までのように頭の中で自分の悩みとして苦しむのとは異なる方法だと思いますのでいつもとは違った結果を得られるかもしれません。その点も興味深いことだろうと思っています。
このようにフィクションや作り話だという態で、実際は自分自身が体験したことをベースにした物語内の一つ一つのリアルな出来事や思いを言葉を使って自分で外部に出していく作業を日々、続けていくことになります。そうなると、そのフィクションは、短いものではなくて長めの物語にしたほうが良いように考えています。毎日、言葉を書き出して記憶の外部化を続けていく中で、その時々で今まで自分自身でも知覚していなかった驚くような発見や体験が訪れることもあるだろうと思います。頭の中や資料作りとは違ったように記憶や思い出を捉えてしまう時があります。その瞬間、自分の過去の全く異なる側面を見たようにも思えて、自分でも不思議に感じてきます。その頭の中と文字の中での過去の差を発見した時の驚きは、純粋に楽しくて面白いことでもあると思います。それを得るためにも毎日、長く続く物語を書き出していくことが良いのではないかと考えています。
また、固定された過去のイメージの違う面を覗きみるためにも長いストーリーの中で自分自身のコアな過去の記憶は書き記したほうが良いと思います。人には話せないどんなに恥ずかしい思い出であっても、そこは正直に書いてみます。他人のためではなくて、自分自身のために書きますが、そこを避けてしまうと自分のためにもならないのではないかと考えています。正直に素直に、どうして自分は引きこもってしまったのか、コンプレックスは何なのか、誰にも言えないけど自分ではよく分かっている本当の悩みは何か、という自分自身でも目を覆いたくなるところを軽やかに見つめて書き出していく作業は大切だろうと思います。
そうすると、過去に対する固定観念が揺らいできて、もしかしたら自分の勝手な思い過ごしではないか、自分で自分の思い出を否定的なものに入れ替えていただけではないか、という感覚も得られるだろうと考えています。ですから、自分が引きこもりになったと自分で信じている要因や恥ずかしくて人には言えない悩みも書き記してみます。ストーリーも登場人物も架空のものを作り出しますが、このコアな部分は正直に書き出してみます。本音の部分を少なくとも自分自身に隠すのはやめてしまいます。せっかく、引きこもり当事者である自分自身を研究材料としてフィクションを書いてみるのですから、そのコアな部分に目を背けてしまったら何の意味もないのではないかと思っています。そして、その核となる部分に触れることで酷く沈んだ気持ちになってしまう危険性を回避するためにも、カラッと、軽やかに、あくまでも書く内容ではなくて書く環境に重きを置きながら書き進めていきます。
僕のカラッと研究小説第一作目は、一年ほど過ごした引きこもり支援団体での生活をもとにしています。登場人物もストーリーも何もかも架空のものですが、実体験をもとにしているために頭の中にあるリアルなイメージを外に書き出す作業を日々、繰り返し行っているような感じでした。結局、毎日書き続けて、三か月ほどで約20万字(400字詰めの原稿用紙で500枚ほど)の物語として完成できました。今までにフィクションを書いたことなどありませんでしたが、上手、下手は脇に置いて書くことはできました。人は誰でも自分自身について生涯に一遍の小説は書ける、というようなことも言われていますので、自分に関するフィクションなら執筆できるのだろうと思います。ですから、本当に気軽に試してみます。
書き終えてみて過去対策としてどうだったかと言うと、過去を忘れ去る、消し去るというよりも、書き終えたあの物語を読みに行けば、あそこでまた何度でも繰り返し過去の記憶に出会えるという、逆に言うと、あそこに行かないと出会うこともないだろう、という感覚になりました。あの場に封じ込めたというような感じになりました。過去と決別したわけではありませんが、長い物語を毎日書き続けることで、そして、曲がりなりにも完成させたことで、区切りはできたと思います。意識的に自分の記憶や思い出に境界線を引いたように感じます。
そして、そういう思いになれたのも、書き終えられたからだと考えています。ですので、過去に関する長い物語を完成させてみます。中途半端にやめてしまうと、また途中で逃げ出してしまった、というように自分で自分を責めることになるかもしれませんので、下手だろうと何だろうと書き終わらせてみます。それを目指します。称賛されるべき内容だとか、読んで面白いだとか、そんなことは気にしないで、とにかくゴールしてみます。そうしないと、また変に沈んだ気持ちになってしまいかねません。
僕のカラッと研究小説一作目は、僕しかそれをすべて読んでいませんし、僕しかその完成したものを知りません。それでも、書き終えてほっとした気持ちです。完成できて満足しています。もうそれだけで良かったと思っています。ですので、たっぷりと時間は有り余るほどありますので、書き始めたら日々、書く作業を続けて完成させてみます。そして、過去対策としてどうだったか確認してみます。もし足りないようなら第二作も第三作も命がある限り書き続けていけますので、大丈夫です。心配ありません。また、もし仮に書きあぐねるような時は、カラッと研究小説は、書く内容よりも書く環境に注意を向ける点を思い出して、書く空間が心地良いものであるかどうか見渡して色々と工夫していきます。机の場所を変えるだけで書きやすくなるかもしれませんし、書く時間帯を変えてみても効果があるかもしれません。
それでは、次はカラッと研究小説を完成させた後にどうするかを考えてみたいと思います。人のためではなくて、自分自身のために書き続けていきますので、出版などは目指さないほうが良いとは思いますが、自分だけが読むのか、それとも他人にも読んでもらうのかなど読者について考えてみます。
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